角界入りは、「飛行機に乗って東京へ行こう」という当時の九重親方(元横綱千代の山、77年=昭52没)の一言で決めた。

 証言 岡本寿一氏(69=岡本医院医院長) 「70年(昭45)8月、夏巡業中の九重親方に紹介したんです。水泳では中学2年で平泳ぎで校内新記録、陸上でも道南大会の三段跳びで中学新記録。本人は高校で水泳か陸上の選手になるつもりでしたが、親方が飛行機に乗らないかと言ったとたん、目が輝き出しました」。

 証言 元千代の富士の九重親方 「当時飛行機に乗れるのは町長ぐらいだった。中学卒業まで取りあえず相撲をするという約束だったので、帰ってから友達に自慢してやろうと思ってた。汽車と言われたら、人生は異なったはず」。

 大秋元の名前で秋場所デビュー、翌年初場所には千代の山の「千代」と、北の富士の「富士」をとって千代の富士とシコ名がついた。場所後、約束の中学卒業が近づいたからと、勝手に荷物を実家に送り返した。

 証言 九重部屋の当時のおかみさん、杉村光恵さん(62) 「親方が、高校なら東京でも行けると、やっと納得させました。千代の富士はいちずなんです。言い出したらきかない性格はその後、いろいろなところで飛び出しました」。

 71年(昭46)、明大中野高へ進学したが、名古屋場所(西序二段5枚目)で初めて3勝4敗と負け越した。8月、福島巡業で入門後初めて里帰りした。真っ黒の浴衣と歯の欠けたげたで帰った。

 証言 九重親方 「母が博多帯とげたを買ってくると言った。着るものも履くものもみんな番付で決まっている、勝手には買えないと言うと、母が寂しそうな顔をした。その顔を見て、次は必ずせったと博多帯(三段目以上)を締めて帰ってこようと決心した」。

 高校はその夏で辞めた。癖になった左肩の脱きゅうと戦いながら、24場所で74年(昭49)九州で新十両入り、翌年秋に新入幕を果たした。

 証言 金井整形外科、金井宏医院長(67) 「脱きゅうするたびに来ていた。待合室で小さい体をすぼめて座っていたが、“コンチキショー、コンチキショー”ってつぶやいてました」。

 73年(昭48)春場所以来、左肩脱きゅうは10回に及んだ。79年春場所、逆の右肩を脱きゅうした。それが転機となった。手術をすれば3週間はギプスが取れない。関節周囲の筋肉で、「脱きゅうしない肉体」に改造すると決めた。四日市中央病院でリハビリを続け、腕立て伏せ一日500回をノルマにした。

 証言 杉村光恵さん 「出入りの業者が驚いていました。千代の富士の部屋の畳は3週間に1回取り替えましたが、すり切れた畳には手の跡がくっきり付いていたそうです。いちずさが、脱きゅうも克服したんです」。

 証言 二子山親方(45=元大関貴ノ花) 「平幕のころ(79年=昭54京都巡業中)たばこをやめたら大きくなれるとアドバイスした。私はたばこはやめられなかったが、素質のある男だけに、伸びてほしかった」。

 たばこをぴたりとやめると100キロそこそこの体重が、翌年夏場所で小結に返り咲いた時は110キロに。相手を振り回すような取り口から、肩に負担がかからないよう、左前ミツを取って一気にダッシュする相撲に変えた。

自分の型ができた。【特別取材班】

 ◆北海道-東京間の航空便 北海道の空の玄関口・千歳空港は1926年(大15)10月、小樽新聞社(現北海道新聞社)の北海1号機(三菱式R2・2型)が地元民造成の平たん地に着陸したのに始まる。

 その後32年に旧海軍航空隊基地となり、第2次世界大戦の終戦とともにアメリカ軍が接収、50年アメリカ軍航空隊基地となる。51年10月、わが国の民間航空が再開されると同時に日本航空が千歳-羽田間に一日1往復の運航を始めた。現在は一日に日本航空が13、全日空が13、日本エアシステムが8往復(合計34往復)。函館空港は58年に第2種空港に政令指定された。61年4月から全日空が東京-仙台-三沢-函館-札幌間一日1往復、71年11月に滑走路が延長され、同月東京-函館間にB727機が就航、現在は8往復。そのほか北海道で東京直行便のある空港は旭川、女満別、中標津、釧路、帯広、稚内。

※記録や表記は当時のもの