輪島大士さんは、大相撲の横綱として史上2人目のプロレスラー転身を果たした。年寄名跡を借金の担保に入れたことが発覚して角界を廃業し、86年に鳴り物入りで全日本プロレスに入門。特別待遇の英才教育を受けデビューした。絶大な知名度でテレビの視聴率、地方興行の集客と話題を集めたが大きな実績を残せず、3年足らずで引退した。

大相撲で一時代を築いた名横綱のプロレス入りは、一大事件だった。85年12月に廃業。アントニオ猪木率いる新日本プロレスと激しい興行戦争を展開していたジャイアント馬場が、集客の目玉として輪島さんをスカウトした。日刊スポーツは輪島さんの全日本入りを86年4月8日付の1面スクープとして伝えた。輪島さんのプロレス転向をきっかけに、日刊スポーツにまるまる1枚のプロレス面がスタートした。

輪島さんは馬場から特別待遇で迎えられた。ジャンボ鶴田や天龍ら、当時のトップレスラーにコーチ役を頼まず、いきなりハワイで練習。初代AWA世界ヘビー級王者のパット・オコーナーの指導を受け、馬場とタッグ戦で米国でデビューを飾った。当時、日本でスパーリングのパートナーを務めた渕正信は「38歳がスタートだったから、米国で涙の出るような練習をしたと聞いた。『渕君、オレにはこれ(プロレス)しかないから、1年、2年(練習を)しっかりやるよ』と明るく話していた」と言う。

米国での集中特訓で腹をへこませ、背筋を鍛えた。大相撲時代ののど輪をヒントにゴールデン・アームボンバーを開発。リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座挑戦や、スタン・ハンセンとPWF世界ヘビー級王座決定戦を行うなど実績を積んだ。帰国後、全日本デビュー戦のテレビ視聴率は20%を超えた。地方興行も常に大入り、タイトル獲得はなかったがプロレス入りの反響は絶大だった。

全日本には天龍を始め、角界出身の先輩がいたが、輪島さんは横綱のプライドを捨てて、溶け込もうと努力した。角界出身のグレート小鹿は「オレは相撲界に3年しかいなかったけど、オレのことを先輩と言ってくれた。気さくで、人懐っこい人だった」と話す。天龍との試合では、靴ひもの跡が顔につくほど蹴られたが、それもプロレス界で一流になってほしいという、天龍の愛情からだった。

88年12月に、輪島さんはひっそりと引退した。引退発表も引退試合もなかった。膝や首など、約3年間のプロレス生活で体はボロボロになっていた。「プロレスの世界ではチャンスに恵まれず、自分の道を歩けなかった。でも、まだ70歳でしょ。ちょっと早いよ」と小鹿は残念がった。【桝田朗】