柔らかな語り口で落語を演じた桂米朝さんは、芸能全般に通じた学究派の名人だった。人々を楽しませた落語は、幅広い知識に裏付けられたもので、まさに芸術だった。

 父親の影響で幼いころから寄席に通い、中学のころには落語通に。東京での学生時代に寄席文化研究家・正岡容に師事し芸能の研究を始めた。

 正岡の勧めもあり落語家になったころ、仲間の落語家が少ないギャラで酒を飲んでいたのを横目で見ながら、自らはリンゴを食事代わりにして研究にいそしんでいたという逸話で知られる。

 当時は上方落語の衰退期。「このネタをやる者も伝える者もおらんような状態やけど、仕込んどいたら、すごい値打ちが出てくるもんや」と将来の復活を期し、伝統再興に熱意を燃やした。

 研究の成果は多くの著作にも結実した。落語・古典芸能に関する考証を集めた「上方落語ノート」などは落語家だけでなく、研究者が高く評価する。落語入門書「落語と私」などは、一般の読者を上方落語の奥深い世界へと誘った。

 米朝さんの高座のネタは、100を超えるといわれている。演じるのが難しい「らくだ」などの大ネタから、分かりやすく若手も演じる「阿弥陀(あみだ)池」など多彩。緻密で、生き生きとした人間描写を、作家の故司馬遼太郎さんは「文学作品」と評した。

 ◆上方落語 江戸中期に京都で露の五郎兵衛、大阪で米沢彦八が自作の話を披露したのが起源とされる。江戸落語との違いは、見台(けんだい)を扇子や小拍子(こびょうし)でたたき、三味線などの演奏を取り入れるにぎやかな演出。戦後、漫才の勢いに押されるなどして落語家が激減し、1957年の上方落語協会発足時の会員数は18人だった。だが桂米朝さん、6代目笑福亭松鶴さん、5代目桂文枝さん、3代目桂春団治さんが「四天王」と称されるまで芸を磨き、多くの弟子を育てて盛り返した。13年7月現在で協会に所属する落語家は約230人。