黒縁眼鏡がトレードマークの人気落語家、8代目橘家円蔵(たちばなや・えんぞう、本名・大山武雄=おおやま・たけお)さんが7日午前3時30分、心室細動のため死去した。81歳だった。葬儀は近親者で執り行った。下町口調の語り口やギャグの連発で人気を呼んだ。心臓に疾患を抱え、4年前から寄席の高座を控えていた。

 円蔵さんは7日午前1時ごろ、長女(51)と同居する自宅2階で倒れた。ドンという大きな音がして長女が駆けつけると、トイレ付近で倒れていた。救急車で病院に搬送されたが、午前3時30分、長女や義弟らにみとられて息を引き取った。生前に「今まで派手にやってきたから、死ぬ時だけは静かに送ってほしい」と話していたこともあり、葬儀・告別式は近親者と弟子だけで行ったという。

 1965年(昭40)に真打ちに昇進して月の家円鏡となった。速いテンポでナンセンスギャグを連発し、相手を持ち上げる「ヨイショ」や、妻をネタにした「うちのセツコが」のギャグが大当たり。テレビで引っ張りだことなり、CMにも多数出演した。口ぐせは「うまいのは(古今亭)志ん朝、(立川)談志は達者。アタシは面白い落語家を目指す」。言葉通りどこまでも面白さを追求した。

 78年に起きた落語協会の分裂騒動時に1度脱退を表明したが、寄席出演を求めて復帰。82年に円蔵を襲名した。

 古典落語に現代的ギャグを織り込む独自演出で人気を誇ったが、4年前から寄席の高座を控えた。総領弟子の月の家円鏡(70)によると「落語を忘れたり、突拍子もないことを言い出すようになった。弟子の名前も忘れることもあった」。心臓が普通の人の3分の1程度しか動かない疾患を抱え、10メートル歩いても息切れした。医師からペースメーカー装着を勧められたが、「シャレ、シャレだから」とかたくなに拒んだという。

 寄席から遠ざかったが、12年11月に地元の東京・江戸川区で一門落語会に出演した。「途中であやしくなって僕らが出て行って『大喜利にしましょう』と謎掛けなどをしました」(円鏡)。2年前にも「落語をやる」と落語会に出掛けたが直前になってやめたという。「やる気はあっても上がる勇気はなかったのでしょう。僕らも恥をかかせたくなかった」(円鏡)。3年前が最後の高座になった。

 10年に「うちのセツコ」でおなじみの妻節子さんが82歳で死去。1人暮らしとなったが、弟子10人が交代で家に泊まり込み、食事などを共にした。4月に長女と同居するまでこの生活が1日も休まず4年続いた。円鏡は「師匠は『俺が主役』というプライドがあった。気配り屋できめ細かい人だった。ヨイショも気配りから来ている。師匠には、もう気を配らず、ゆっくりと休んでほしい」と話した。

 ◆橘家円蔵(たちばなや・えんぞう)1934年(昭9)4月3日、東京都生まれ。小学校卒業後、家業の紙芝居を手伝い、52年に7代目橘家円蔵に入門、橘家竹蔵を名乗る。55年に升蔵と改名して二つ目、65年に真打ちに昇進、月の家円鏡に。82年に8代目橘家円蔵を襲名。テレビは「お笑い頭の体操」「やじうま寄席」などに出演。落語協会相談役も務めた。