戦後の上方落語を復興させた四天王の1人で、最後の大看板だった3代目桂春団治さん(享年85)が今月9日に亡くなったことを受け、14日夜、大阪・道頓堀の角座で、一門筆頭の桂福団治(75)春之輔(67)ら弟子が会見した。

 春団治さんが20代のころ、入門した福団治は「師匠が言うなら『黒も白』の封建時代、私生活でも古いしきたりを大事にし、額縁の中から絶対にはみ出さない人でした」と振り返った。

 春団治さんは、ネタに入る前に枕を振らず、涼やかに高座へ現れ羽織を脱ぎ、ネタを始める一連の動作は流れるようだった。繊細で華麗な語り口でファンを魅了し、数カ月に及ぶけいこを重ねても「自分に合わない」と思えば、決してそのネタを高座にかけることのない頑固さでも知られた。独自の美学を貫いた師匠から若き日、徹底して仕込まれた福団治は、一番の教えを「長幼の序」だと語った。

 「目上の人を敬う心、下の者に優しくする心。芸は人が出る」。春団治さんから徹底して教えられた精神論だった。

 また、春之輔は「落語が好きというより、春団治のファンで」弟子入り。高校2年から師匠のもとへ通った。「師匠の芸は誰にもまねできへん」と話す。

 春団治さんが得意とした「お玉牛」では、男が夜ばいをする場面があり、牛の尻尾に見立てた扇子をクルッと回し、額を打つ所作があり、春之輔はこれを「師匠にしか出せへん色気がある。しかしまあ、あんな男前に夜ばいに来られたら女性も受け入れまっせ」。春団治さんが高座から放つ独特の色気に、いまだほれているという。

 実際、春団治さんは、二枚目で知られ、おしゃれにも気を使った。晩年も、自宅近くを散歩に出るだけでも、装いにこだわり、私生活でも洒脱(しゃだつ)を意識していた。一方で、性格はシャイ。マスコミ取材も嫌い、テレビ出演もほぼなかった。

 弟子の桂春若(64)は「1度だけ、落語以外で師匠と仕事をしたことがある。オークションの司会やったけど、あれだけ。師匠はずっと『ワシが金稼げんのは落語だけや』と言ってました」と話した。

 芸以外で人前に出ることを苦手とした春団治さんの意向に沿い、春之輔ら一門は「万一の際は密葬で」と決めていた。

 春団治さんは9日に亡くなり、11日に親族や一門で密葬を終えた。棺に眠る春団治さんには、お気に入りで、最も似合っていた柿色の着物を着せ、見送ったという。

 戒名は「一春鑽陰釈一道(しゅんさんいんしゃくいちどう)」。