みの

 私の妻が亡くなりました。66歳でした。今の世の中の平均年齢から言いますと、大変早い、若い歳での旅立ちでございますので、私もせつない思いでございます。

 -どのような病状だったのか

 みの

 がんです。最後は末期がんです。

 -どこが悪かったのか

 みの

 最初は皮膚病のような気持ちでいたらしいのですが、皮膚がんという状態だったようです。残念ながら皮膚がんが、皮膚でとどまらずに骨に転移いたしまして。その転移が始まってもう4年近くなるんじゃないかなというお話です。言われてみると、10年くらい前から腰が痛いとか、腰痛をちょっと治療したいと、よくマッサージとか指圧とか通っていました。大変長い時間いっこうに良くならない、歩くのもちょっと不自由な、腰のあたりに寝てても痛みがって、いう段階になって初めて専門の医療にみてもらうと、骨の異常という診断になりまして、去年の7月に急きょ、築地のがんセンターにお世話になりまして、即手術をして、後は抗がん剤の治療と骨の痛みを止めるために放射線の照射の治療を続けました。

 -余命は宣告されたのか

 みの

 何日かとか、そういうことは受けてません。

 -ただ末期がんとだけ言われたのか

 みの

 そうですね。それをどう乗り越えるのかドクターは努力をして、私どももできる限りサポートをしたいなと。

 -告知されたのはいつか

 みの

 (昨年の)7月です。

 -告知を受けたときに靖子さんにどんな言葉をかけたか

 みの

 覚えてません。

 -2週間前にニューヨークに行ったのか

 みの

 12月の末、正確に言いますと27日に、大変調子が良いと言うことなので、お正月はご自宅でということで、一時退院の許可が出まして。骨をやられているんで、気をつけてくださいよと、言われていたのですが、シャワーを浴びているときに転びまして、大腿(だいたい)骨骨折をしまして、緊急入院しまして、1月、2月と入院していたのですが、順調に回復いたしまして骨のがんも大変うまい具合に治まり、そして、ピンポイントのレントゲン照射が功を奏して3月から通院で良いよということになりました。とてもうれしかったです。去年は、東日本大震災もありまして夏休みをとる暇もなかったものですから、彼女の方から先生に話したら許可が出そうだから少しでも早くニューヨークに行きたいと。彼女がセッティングして行きました。5日目までは大変元気で、6日目の朝起きたら鼻血が出ていて、異常を感じて急きょ帰り、先週火曜日、成田から病院に直行し、残念ながら小脳の方に転移が見つかり、今週の火曜日(午後)4時48分に永眠いたしました。家族全員最後まで彼女の手を取りながら送ることができました。私も、彼女の最後の深呼吸のような呼吸を確認とれました。苦しんだ表情もなく本当に眠ったような顔でした。つらいです。

 -最後はどんな会話できましたか

 みの

 先生が意識はないけど耳は聞こえていますよというので、僕なりに話しをしました。

 -どんな言葉で

 みの

 ゆっくり休んでくださいって。そのひと言です。

 -一心同体だったというコメントを出していたが

 みの

 僕のスタイリストをやってくれていました。それ以上に、僕と番組に一緒に参加をしているという気持ちで取り組んでいました。毎日、8時半に朝ズバが終わるとその日の新聞を持って病院に通う日々でした。病院も気を使っていただいて、おかげさまで、誰にも気づかれず彼女も静かに療養生活できました。「あなたおしゃべりだから、しゃべっちゃダメよ」と言われました。

 -思いを胸にしまい込んで毎日、放送するのは辛かったと思われますが

 みの

 生放送ですから、当たり前のことです。僕は父の死に目にも、母の死に目にも立ち会うことはできませんでした。彼女の死に目にも立ち会うことはできないかなと、でもとにかく、そんな時は絶対に来ないで回復すると信じておりました。別に苦痛だとか我慢したとか、そんな大それた気持ちはございません。

 -奥さまのお体しんどかったのですね

 みの

 僕、月曜から土曜まで朝ズバで、午前3時起きなのですけど、彼女必ず毎日一緒に3時に起きて衣装を整えて確認して僕を送り出し、5時半に番組がスタートするとスタジオのデスクの女性と電話して衣装のチェックをしてね。毎日ね。ですから、入院している間は先生に特別に許可とったから。この携帯で、もう君は療養生活なんですから、かける必要はない。寝てて欲しいと言ったんですが「急に会社で連絡がとれないのはおかしいでしょ。やっぱり、自分の責任もあるから」と毎朝、電話連絡で衣装のチェックをしてね。だからスタッフの誰も気がつかなかった。

 -いつまでそれを続けたのか

 みの

 ニューヨークに行くまで。病院にいても自宅にいても。ですから、最初帰ってきて月曜日の番組のスタッフの人に「今日は女房ちょっといないから」と言ったら、「まだニューヨークですか」って聞かれたから「うん。そうなんだ」って答え、2日目に「今日もいらっしゃらないのですか」と聞かれ、「今日もいないんだと」。

 -告知を受けてから、ご夫婦で貴重な大切な時間をもてたことについては

 みの

 今、しみじみ思います。元気でいるときはあたりまえに存在した。まだ3日くらいしかたっていませんですけど、喪失感が大きいです。彼女が18の時からちょうど50年の付き合いになります。大変重要な存在だったんですね。僕の番組に一緒に参加している気持ちでやってくれていたんだなと、日に日に強く思います。

 -最後にニューヨークに行けて良かったですね

 みの

 どうしても行きたいと。最初の5日間は見たいものを見て、食べたいものを食べ。画廊をめぐり欲しいなという絵があって同じ画廊に2度3度と通ったりして過ごしました。

 -長い50年で一番の思いでは

 みの

 たくさんあるけど、これからどんどん出てくると思う。(家に)帰って衣装室に入ったら6月の分まで衣装が準備されていた。きれいに出来ていたんで。それを見るとつらくて。

 -安らかに休んでらっしゃると思いますけど、生放送は大変ですね

 みの

 これは、あくまでも僕個人の問題ですので、公共の番組に出ておりますので一般の方々達に迷惑をかけるのは絶対にいけないことだと私は思っています。つらいです。本当につらいです。何がって言われると、昨日もメークさんに来てもらってきれいにメークしてもらったんですけど、うまく言えないけど、いてほしいなって気持ちが強いです。7月からの僕の衣装とんちんかんになるでしょうね。

 -今日のこの衣装も

 みの

 全部そうです。

 -いつも言われてたことは

 みの

 いつも怒られていました。飲み過ぎないようにね。よく言われました。

 -初恋の人だったのか

 みの

 そうですね。僕は男子校で育ったものですから大学になって共同になって、誰でもよかったんじゃないですか。

 -靖子さんはどんな存在でしたか

 みの

 相手にされませんでした。

 -奥さんとしてどんな人でしたか

 みの

 子供3人いますけど、僕入れて子供が4人みたい家庭ですから。

 -点数をさしあげるとしたら

 みの

 100点満点です

 -してあげたかったことは

 みの

 たくさんありますね。もっと優しく、もっと一緒にいるべきだった。いてあげたかったと思ってます。

 -靖子さんにささげる愛の言葉は

 みの

 生きているうちに何で言えなかったのかなと。本当に1日1日眠っているような顔でいるでしょ。本当にね本当に、こんなにいとおしい人だったのかと分かりました。