平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災、福島第1原発事故から間もなく8年。復興は進んでいるが、福島には今なお名古屋市とほぼ同じ面積、337平方キロもの帰還困難区域が広がる。同県いわき市出身のAV監督、村西とおるさん(71)は変わり果てた故郷への思いを語った。

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お待たせいたしました。お待たせしすぎたかもしれません。前科7犯、昭和最後のエロ事師、村西とおるでございます。手前どもが生まれ、育った、美しく懐かしい故郷・福島が、震災、津波、原発事故で、ずたずたにされて8年がたとうとしております。このたび故郷について語れ、とご要望がございました。欲しがりすぎ、でございます。しかしほかならぬお求めでございます。お話しいたしましょう。

先般の震災で大きな被害を受けた福島県の海岸沿い「浜通り」は、県内でも貧しい地域でございました。炭鉱が斜陽化し、地元に大きな企業もない。手前どもがガキのころは、多くの人たちが、貧しいながらも肩寄せ合って生きていたのでございます。

中学時代、親しい友がおりました。体格がよく、おとこ気にあふれた好漢でございました。父親は、東京の建設現場に出ているとのことでした。地元に働き口の少ない、この地域では珍しくもないことでございます。

ある日、友の家に一通の電報が届きました。父親の遺体を引き取って欲しいという、雇い主からの知らせでございます。重労働の果てであったのでしょうか。家族を故郷に残したまま、帰らぬ人となったのでございます。

数日後、段ボールに無造作に納められた遺骨が送られてきました。着古した息子の下着も入っております。出稼ぎに行く際、「息子の下着をつけると若返る気がする」と言って、おどけた父親の顔が思い出されます。大きな背中を丸めてさめざめと泣く、友の姿が忘れられません。以後、学校で友の姿を見ることはありませんでした。事故死か病死か、一家の働き手がなぜ死んだのかすら告げられぬまま、収入を失った一家は離散した、と風の便りに聞くのみでございました。

貧しさゆえの、悲しい家族の話をしばしば耳にいたしました。諸悪の根源は貧乏でございます。体を害し、心を病み、家族は崩壊し、果ては命さえ奪われたのです。貧乏は、オバケや暴力団、北朝鮮より怖いのでございます。

1970年代、浜通りに原発がやってきました。働き口ができ、経済的な恩恵も受けられ、家を建て、家族を養った者も少なくありません。友の父も東京で命を落とすこともなかったかもしれません。手前どもは、すでに故郷を出ておりましたが、貧しかった浜通りにようやく光が当たった、将来は安泰だ、との思いでございました。わが郷土には、石炭でも石油でもない、未来のエネルギー、原子力があるんだぞ、思い知ったか、の気概でございます。原発は地元の希望であり、誇りでもあったのです。

もちろん、豊かさがすべてに行き渡ったわけではございません。持つ者、持たざる者を分け、金に心をむしばまれた者がいたことも事実でございます。しかし、原発が光であった地域の歴史を知らず、ほら見たことか、とばかり、さかしらに反原発を唱える方もおられます。地元にとって原発は、良い悪い、右だ左だの問題ではないのです。リアルな生活の現実なのです。ぜひご勉強賜りたいのです。

震災後、故郷を歩いて涙が止まりませんでした。思い出の場所が、あそこもここも、破壊されてございました。あぜんとして立ちつくすしかなかったのでございます。あれから8年。浜通り地方には、今も震災や原発事故の影響が、さまざまな形で残っております。いわれない風評被害や、差別的な扱いも続いております。なぜ、こんなことになってしまったのか。悲しい、悲しすぎでございます。

大正生まれの母は、貧しいながらも気丈に生き、11年前に他界いたしました。震災と、その後の郷土を知らずに逝ったことだけが救いでございます。【取材・構成=秋山惣一郎】

◆村西とおる 1948年(昭23)福島県いわき市出身、県立勿来工高を卒業後、バーテン、英会話セットのセールスマン、テレビゲームリース業を経て「裏本の帝王」となる。その後、アダルトビデオの監督に転身、3000本以上を制作する。「ナイスですね」のフレーズで知られる。