原沢久喜(24=日本中央競馬会)の頂点への戦いは、絶対的な強さを誇るテディ・リネール(フランス)の壁にはね返された。王者の強さと巧みさの前に力を出し切れず、わずか指導1の差での銀メダル。力を出し切れない悔しさが残った。ただ、ロンドン五輪でメダルなしに終わった最重量級で、復活への第1歩は踏み出せた。

 再建を目指し、重量級はチーム一丸で歩んできた。決して原沢個人の資質だけで、メダルにたどり着いたわけではない。12年、熱烈なオファーを受けて重量級のコーチに就任した鈴木桂治氏は、心身についての改革を代表選手全員に訴えてきた。「重量級は特に、軽量級だったら100回でできることを1万回ぐらいやらないとできないと言われているくらいマイペース。闘争心も軽量級より少ないし、時間はかかる。ただ、その火を付けてしまえば簡単なんです。内なる闘志も大事だが、見える闘志も必要は必要ですよね。そういう話は伝えましたね」。

 12年秋から新体制が発足し、当初は稽古後に重量級の選手、コーチ陣が車座になって意見をぶつけ合う姿をよく目撃した。その中から登場してきたのが14、15年世界選手権銀メダルの七戸龍。極真空手日本一の経験もある父を持つ異色の柔道家は、再建の旗頭となっていった。特に14年世界選手権では決勝でリネールを追い詰めた。有効判定があってもおかしくない大内刈りで「勝利を逃した」と表現できる熱戦を繰り広げた。

 これが国内の他選手の刺激にならないはずはない。自分もいける-。そう思った選手から七戸に挑む若者たちが現れた。体重無差別で争う全日本選手権では14年に王子谷剛志、そして15年を制したのが原沢久喜だった。この若手2強の登場を同コーチは「七戸にとっても刺激になった。存在は大きかった」と振り返る。リオ五輪を巡る争いは激化し、最後には原沢が笑ったが、競り合いがなければこの結果もなかった。「車座?

 やってましたね。いまは必要ないくらいの選手になってきてますから」。同コーチはうれしそうに話す。

 同時に、七戸への感謝も忘れない。「ありがたかったですね。福岡から東京まで拠点を変えて、その辺で意識が切り替わったと思いますし、そういう思いを持ってくれてよかった」。リオ五輪代表落選が決まった4月の全日本選手権後に七戸にメールを送った。「世界一になるまでは、しっかりした気持ちを持ってくれ」と書いた。五輪を区切りにする選手は多いが、もっと現役を続けてほしかった。「やめる気はないです」。その返信を見て、心が救われた。

 原沢にもライバルへの感謝はある。七戸は代表落選後にある思いをツイッターに投稿した。

 「ロンドンから重量級が低迷してると言われる事が悔しく自分の手で変えたいという思いで突っ走ってきました。原沢選手に託すことになりましたが、全階級金を取れる力を持っています。日本柔道の応援よろしくお願いします」。

 これを見た瞬間に思った。「七戸さんの人間の大きさ、自分の小ささがわかった。逆の立場で同じことができるか。すごい人だなと思いました。ずっと引っ張ってきた人なので、感謝していると言ったら上からですが、そういう気持ちはあります。自分が結果残さないといけない」。重量級はチームで戦ってきた。代表権を巡る争いにも、その裏には結束があった。それが原沢を突き動かしていた。

 リオ五輪では原沢が、最重量級の復活へ確かな足跡を残した。そして4年後の東京五輪での金メダル獲得へ、七戸、王子谷、そしてこの大会を見て名乗りを上げる新しい選手たちとの新たな競争が始まる。【阿部健吾】