日本サッカーの歴史とともに歩んだ日本協会最高顧問の長沼健氏が2日午後1時15分、東京・山王病院で肺炎のため亡くなった。77歳だった。日本代表監督として68年メキシコ五輪で銅メダルを獲得。日本協会専務理事、同会長として、Jリーグ創設、W杯招致など半世紀以上にわたって激動期の日本を支えた。葬儀、告別式は近親者のみで行う。

 長沼氏の訃報(ふほう)に、日本サッカー界は悲しみに包まれた。東京・文京区のJFAハウスに死去の報が届いたのは、この日午後だった。日本協会の川淵キャプテンは「長年にわたってお世話になった」とコメント。夜のオマーン戦前には30秒間の黙とう。選手たちは左腕に喪章を巻いて戦った。

 長沼氏の人生は、日本サッカーの歴史そのものだった。日本代表FWとして54年の韓国戦でW杯予選初ゴール。32歳の若さで日本代表監督に就任し、68年メキシコ五輪では銅メダルを獲得した。その後日本協会技術委員長などを務め、76年には同専務理事に就任。スポンサーの獲得など次々と新しい施策を打ち出し、協会運営を軌道に乗せた。

 まだ日本サッカーが低迷している時代に、4つの夢を描いた。「プロリーグ創設」「W杯招致」「W杯出場」「ナショナルトレーニングセンター設置」。すべてを実現し、98年に会長職を辞した。その後は「老兵は去りゆくのみ」と表には出なかったが、埼玉スタジアムの場長として子供たちのサッカーに目を細め、障害者サッカーの普及にも務めていた。根っからの「サッカー好き」だった。

 メキシコの栄光から70、80年代の低迷期を経て、サッカーは真のメジャースポーツとなった。その中心にいた長沼氏が「会長として一番つらかった」と振り返ったのが、97年の加茂監督更迭。昇格させた岡田監督のことは、その後も気にかけていた。古河電工の後輩で、その指導力も高く評価していた。だからこそ、この日の勝利を天国で誰よりも喜んでいるに違いない。

 親分肌で「頼まれるといやと言えない」性格は、岡田監督も似ている。この日の試合後、岡田監督は「腹のすわった方だった」と話したが、長沼氏も「岡田は、腹がすわっとる」と評したことがある。岡田監督は2度目の代表監督だが、これも長沼氏以来のことだ。

 FW長沼の1号に始まるW杯予選のゴールは、54年間で157になった。長沼監督の初勝利に始まるW杯予選の勝利は35年で40に届いた。メキシコ五輪で日本を銅メダルに導いた長沼氏の思い、日本代表を強くしたいという遺志は、岡田監督へと引き継がれる。