【ミラノ(イタリア)22日=八反誠、波平千種通信員】本田よ、セリエAもミランの10番も甘くはない-。ACミランの日本代表MF本田圭佑(27)に元ミラン監督の名将アリゴ・サッキ氏(67)からメッセージが届いた。日刊スポーツの取材に「評価を下すのは早すぎる」と重ねて強調。ゾーンプレス戦術を作り上げ、ミラン黄金期の礎を築いたイタリアサッカー界の伝説的名将からの辛口エールだ。

 サッキといえばミランの伝説の一部といっていい。圧倒的な手腕と戦術眼で名選手を束ね、ゾーンプレスという当時としては革新的な戦術を持ち込み、欧州で驚異的な強さを誇った80年代後半の、あのミランを作り上げた人物だ。

 現在も評論家として、風貌と鋭い視線はそのままに、冷静かつ厳しい視線でここカルチョの国でも絶対的な地位にある。その名将は本田をかなり前から知っていたという。前のめりになり印象を問うと、落ち着けと言わんばかりに首を横に振った。それはまるで日本での熱狂ぶりに、冷静になれと諭すようでもあった。

 サッキ

 まだ評価を下すのは早すぎる。ただ、本田のことは以前から知っていた。かなり前から興味を持って見ていた。私にとって今初めて見るという選手ではない。

 まず最初に本田はとてもいい選手だと思う。しかし、評価を下すにはセリエAに慣れるまで待たなければならない。セリエAが、特に外国人選手にとって難しいものであることは歴史が示している。

 本田がデビューしたサッスオロ戦、イタリア杯のスペツィア戦、そしてベローナ戦とプレーした3試合はすべて見たが、まだフル出場もしていないのだから。

 サッキはプロ選手としての経験を持たないまま、名門ミランの監督に抜てきされた。4-4-2布陣の革新的なプレッシング戦術「ゾーンプレス」で相手をのみ込み、就任初年度に30試合でわずか2敗、失点14という強さでセリエAを制覇(17勝11分け2敗)。後にイタリア首相となるベルルスコーニ会長(現名誉会長)に、就任後初タイトルとなるスクデットをもたらした。

 その後も欧州CLの前身のチャンピオンズ杯、UEFAスーパー杯、そして東京・国立競技場で世界一になった2度のトヨタ杯など、幾多のタイトルを勝ち取った。イタリア代表を率い90年W杯米国大会でも準優勝した。戦術そのままともいえる現実的な視点から、セードルフ新監督と本田の関係性に注目した。

 サッキ

 私はお世辞や、甘い言葉を軽々しくこの場で言うつもりはない。何度も言うが、私は評価を下すまでもう少し待ちたい。ただ、最初に本田から送られたサインはポジティブ(前向き)なものだ。ここセリエAでうまくやりたいという強い願望がうかがえる。

 私が長い間監督をしてきて分かったことがある。選手に対し、監督が適切な時間と正確な指示を与えることで、初めてその選手がピッチで力を示すことができるということだ。その意味でクラレンス(セードルフ監督)は本田にとって重要な監督ということになるだろう。

 憎らしいほどの強さで黄金期の礎を築き上げたサッキのミランには、世界的な名手がそろっていた。バレージ、マルディーニといったイタリアの歴史的DFに支えられ、その前にオランダ・トリオのライカールト、フリット、ファンバステン。10番を背負ったのは天才フリットだった。どのポジションでも難なくこなす驚異のオールラウンダーとして圧倒的な存在感を誇った。

 そんなレベルの選手を“使って”きた。当然、チームの顔である10番への期待はどうしても大きくなる。準優勝した90年W杯米国大会でサッキ氏率いるイタリア代表の10番を背負ったのは、あのロベルト・バッジオ。そのエースを1次リーグ第2戦のノルウェー戦では容赦なく途中交代させ、世界中を驚かせた厳しさもまた、サッキだからこそ。それだけ10番は特別であり、だからといって聖域でもない。つまりは、だれも助けてはくれないということ。本田も、自らがその称号に値する選手だとプレーで証明するしかない。

 サッキ

 過去のミランの10番といえばジャンニ・リベラ、フリット、ボバン、サビチェビッチなど計り知れない真のチャンピオンのような選手たちばかりだ。本田が彼らのようになれるかどうかは分からない、今ここで唯一言えることは、本田もそうであったらいいということだけだ。

 ただ、私は本田が彼らのような、10番の系譜に連なる素晴らしい選手になることができたらいいと願っているよ。

 最後に、日本のエースに向け、厳しくも温かいエールが送られた。(敬称略)

 ◆アリゴ・サッキ

 1946年4月1日、イタリア北東部ラベンナの郊外フジニャーノ生まれ。77年にチェゼーナのプリマベーラ(ユース)監督で指導者のキャリアをスタート。82年にセリエC1(3部相当)リミニの監督就任。85-86年にパルマを就任1年目でセリエBに昇格させる。87年にACミランの監督に就任し、1年目の87-88年にセリエA制覇。翌88-89年から欧州チャンピオンズ杯を2連覇した。91年にはイタリア代表監督に就任。94年W杯米国大会は決勝でPKの末、ブラジルに屈するも準優勝。その後はミラン、Aマドリード、パルマを指揮し、パルマの技術顧問、Rマドリードのテクニカルディレクターを務めた。現在は評論家としてテレビなどにも出演する。

 ◆サッキという男

 青年時代は父の靴製造会社でセールスマンとして働きながら、アマチュアチームのDFとしてプレーした。プロ選手にはなれず、地元のクラブで指導をスタート。プロ経験のなさを問われた際に発した「競馬のジョッキーになるのに、まず馬になる必要があるのかい?」という言葉は有名。1986-87シーズン、セリエBだったパルマを率いてイタリア杯でACミランを破り、ミラン監督の座を射止めると、イタリア伝統の守備的なカウンター戦術「カテナチオ(かんぬきの意)」を否定。フラットに並べたDFラインをグッと押し上げ、最前線との間を約30メートルに圧縮する攻撃的な戦術を採用した。狭いエリアの中で激しいプレスでボールを奪い、すぐさま攻撃に移る近代的なサッカーを浸透させ、栄光をつかんだ。