誰もいなくなった祭壇に花を献げた。静かに手を合わせて祈った。1300人の参列者を見つめてきた目の前の遺影から、声が聞こえた気がした。「おい、もういいからさ。かんべんしてくれよ」。故人らしい幻の声に、涙があふれた。

 柔道男子95キロ級で84年ロサンゼルス、88年ソウル五輪を連覇。国士舘大教授で全日本柔道連盟(全柔連)強化委員長だった斉藤仁氏が亡くなったのは1月20日だった。15日、都内で国士舘大と全柔連による「お別れの会」が行われた。会場の外には多くの写真が飾られ、会場では思い出VTRが流れた。柔道、国士舘大関係者らが集まった会は盛大だった。「人は誰でも、多くの人に支えられているのよ」。そんなことを話していた斉藤氏だから、別れを惜しむ人も多かった。

 天国の斉藤氏は戸惑っていたに違いない。祭壇にも飾られた「剛毅木訥(ごうきぼくとつ)」の文字。同氏の座右の銘だ。論語の言葉で「剛毅」は固い意志を持って強くあること。「木訥」は飾らずに無口であること。この言葉を体現した男にとって、派手で盛大な会は、苦手に思えた。

 表に出るのを嫌がり、派手に振る舞うのを嫌った。選手の時も、指導者になっても。「オレじゃなくて、他の選手を取材しろよ」。「勝ったのは選手だから、指導者よりも選手を扱ってよ」。いつも、そんなことを言っていた。「別に目立たなくてもいい。分かってくれる人が、分かってくれれば。それが、男ってもんじゃないの」。その言葉には、説得力があった。

 終生のライバルで目標だったのは、山下泰裕氏。ロス五輪95キロ超級で金メダルを獲得した翌日、無差別級を制した山下氏はヒーローとなり、国民栄誉賞にも輝いた。その陰に隠れた斉藤氏。「オレなんか、忘れられた存在だよ」と自嘲気味に言ったこともあった。

 多くを語らず、結果だけを残していった。ロス五輪の後、父伝一郎さんに言われたのは「てんぐになるな。世界一でも日本では(山下氏に次いで)2番なんだから」だった。大きなことは言わず、黙々と努力を続けた。山下氏は話術も巧みだったが、斉藤氏は口べた。テレビカメラの前で大汗をかき、言葉に詰まった。しかし、それも「木訥」な斉藤氏らしかった。

 最近の選手は、話がうまい。自己プロデュース力があり、売り込むことも巧みだ。競泳の北島康介らのような「有言実行型」が、トレンドなのかもしれない。斉藤氏は「不言実行」の典型だった。もしかしたら、斉藤氏が最後の「不言実行型」金メダリストなのだ。

 88年ソウル五輪は、斉藤氏が日本選手団4個目の金メダルを手にして幕を閉じた。翌89年の1月、時代は平成に変わる。昭和最後の金メダリストになった斉藤氏は、やはり「昭和の男」なのだ。「男は黙って…」やってきた。だから、派手なことは嫌い。表にも出たがらなかった。それでも、大勢の人がお別れを言いに来たのは「分かってくれる人」がたくさんいた証拠。だから仁ちゃん、照れたり恥ずかしがったりすることはない。胸を張って、天国に旅立ってほしい。