球春到来を目前に、野球にまつわる1冊をオススメしたい。1月に中央公論新社から発売された「スコアブックの余白 読売巨人軍前会長おぼえ書き」というコラム集。著者は長く巨人の要職を歴任した桃井恒和氏(70)である。

 長嶋茂雄終身名誉監督が寄せた「桃井さんと私」の前書きに味わいがある。桃井氏から、突然、あるお願いをされたミスター。そのお願いは常識的には戸惑う類いだが、真意を理解し、逆に感謝する。粋人であるミスターは、桃井氏はじめ周囲を驚かせようと、大きなサプライズに出る。しかし桃井氏は、そこまで予見していた答えをする…。信頼関係あってこそ、のやりとりが心地よい。

 日本エッセイスト・クラブ会員の軽妙な筆致で読ませる。社内報に記載されたコラムが軸だが、いわゆる内輪ネタの類いが一切、ない。暴露的な話を期待するのではなく、野球を表現する文章を純粋に楽しみたい。

 歴史を回顧したり、身の回りの出来事、もちろん巨人のフロントだから野球のことがほとんどだが、そればかりでもない。硬軟自在の切り口で入り、洗練された言葉の選択に委ね、いつの間にか引き込まれる。自分自身のことも正直に記すので敷居を感じさせない。筆力とは人間の懐に比例する。

 終点の1文はよく読むと、職員への愛情こもったメッセージが潜んでいることが多い。普遍的なことであったり、期待、ときに叱咤(しった)も。社会人なら誰しも参考になるだろう。こんな文章で励まされる巨人の職員は非常に恵まれていた。

 番記者と取材対象者として、長い間お付き合いしてもらった。「オーナー」「会長」「社長」「GM」…。特に立場が上の方に呼びかける時は、肩書がほとんどである。桃井氏は違った。「桃井さん」と呼びたくなる柔らかい空気をまとっていた。

 グレーのスーツ、銀縁のメガネに白髪。少し猫背。あいさつは丁寧。巨人が勝った翌日は笑みを含んでいた。巨人のフロントとしては非常に珍しい雰囲気にずうずうしく乗じ、毎朝の出勤時にぶら下がりをするようになった。

 ナイターの感想戦や巨人、球界のことはもちろん、徐々に会話に広がりが出た。ウイットに富んだ話が心地よく、おおいに甘えさせてもらった。誠実な桃井さんは「明日は朝から仕事があるので、ここで待っていても空振りになる」と、いらぬ気遣いまでしてくれた。いつしか家族の現状報告や悩み、会社や仕事の悩みまで、何でも相談していた。ある年の年賀状に「『10聞いて1を書く』を目指して下さい」とあった。10を書きたいなら100聞かないといけない。今も大切にしている言葉だ。

 優しいだけで巨人のトップなど務まらない。芯の強さを垣間見ることはまれだったが、歴代のフロントでもトップクラスの迫力があった。本の「あとがき」に、内輪ネタを書かなかった理由に触れる記述がある。「フロント道」という表現を用いた一節に、何としてもチームと選手を守るという強さと自負が伝わる。

 それにしても、なぜ、あんなに気を許したのだろう。娘が生まれ、18歳で上京してからめったに帰らなかった実家に足が向く機会が増え、ようやく理由が分かった。グレーのスーツ、銀縁のメガネに白髪。少し猫背。静かな雰囲気を含め、住職の父とよく似ていた。父性を感じていたのだと思う。

 WBCの大勝負から始まる17年のプロ野球。少し腰を落ち着け本を手に、父のごとく深い野球の懐を味わうのもいい。【宮下敬至】