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羽生金メダル!涙の真実、「感謝」の訳

<ソチ五輪:フィギュアスケート>◇2014年2月14日◇男子フリー

 100年の歴史を動かした。ソチ五輪フィギュアスケート男子シングルで、羽生結弦(19=ANA)が日本男子初の金メダルを獲得した。ショートプログラム(SP)に続き、フリーも1位で滑り、合計280・09点で優勝した。競技が始まった1908年ロンドン大会から106年(24大会目)。欧米以外で初の金メダリストとなり、延べ29人の日本人が挑んだ先の頂点に立った。東日本大震災から復興途上の仙台市を離れる涙の決断をし、カナダに渡って約2年。最高の結果で恩返しのメダルを届けた。

欧米人以外で初

 1人だけだ、たった1人だけ。氷の上の小さな表彰台。滑っているより少し遠くが見渡せるその真ん中に、一礼をした羽生は、軽やかに脚を乗せた。「五輪の金メダリストは1人だけしかいないんだ」。当たり前のことが新鮮に感じる。たった数十㌢高い位置でも、そこは世界の頂点に立った男しか許されない景色。いま、そこに自分がいる。

 羽生 日本の皆さん、世界中で応援してくれる皆さん、何千、何万の思いを背負ってここに立てた。すごくうれしい。恩返しができたんじゃないかな。

 ミスが続いたフリーの演技。悔しさで充満していた心を、その眺めがほぐしていく。心地よかった。「やったんだ」。ほほ笑みを絶やさない。それは、あの小さな部屋での涙の先にあったほほ笑みだった。

 「本当は仙台にいたかった」。12年5月、さらなる成長のため、カナダ・トロントに練習拠点を移した。関係者によって、レールは敷かれていた。金妍児を育てたオーサー・コーチの元で学ぶ―。非凡だからこそ、名伯楽に託したい。その親心を理解しながらも、決して自分が望んだ道ではなかった。もう流れは止められなかった。

 出発の2カ月前、世界選手権が開催されたフランスから帰国すると、仙台では誰にも会わなかった。「自分は裏切り者なんじゃないか」。お世話になった人への、震災から立ち直ろうとする故郷へのうしろめたさ―。

 自らも被災者だった。震災の時、スケート靴が脱げずにリンクにひざをついて逃げた。4日間は家族4人が避難所暮らし。畳1畳に毛布1枚の生活も味わい、「生活で精いっぱいなのに、なんでスケート…。やめようかな」とまで思った。60以上ものショーが練習代わり。その最中、500通のファンレターに返事を書いた。「僕が、本当は支えられていたんだな」と心に染みた。だからこそ、離れることは裏切りのように感じられた。

 4歳から通ったアイスリンク仙台。出発直前、あいさつに行った。「いってきます」の短い言葉。それが限界だった。終えるとそのまま、靴の刃を研磨してくれる隣の店へ。その奥の小さな部屋で泣き崩れた。長く、悲しい時間。「僕は行きたくないんだ…」。

差別的な視線…

イナバウアーを決める羽生結弦=2014年2月14日
イナバウアーを決める羽生結弦=2014年2月14日

 それでも旅立ちの時はくる。母と2人、カナダへ。アパートでの2人暮らしで、地下鉄を乗り継ぎ練習場へ通う日々。ぜんそく対策のマスクをつけると「変な人に見られる」。レストランでは、隣席の団体客の高額レシートを支払わされそうになった。差別的視線に、友人もいない異国は冷たい。「英語もできない。いちいちストレス。こんなんでよかったのか」。ただ、進むしか道はなかった。

 迎えた五輪シーズン。「今の自分にしかできないことを表現したかった」とフリーの選曲は、震災があった2季前と同じ「ロミオとジュリエット」だった。ささげたのは復興する故郷。最高の舞台で、2季前から成長した自分を見せられたら、それが「恩返し」だと思ったから。

 その五輪の舞台は、甘くはなかった。前日のSPでは飼いならした独特の雰囲気が、フリーでは暴れ出した。緊張に体は硬直した。冒頭の4回転サルコーは、スピードに欠いて転倒。続く4回転トーループは完璧に決めたが、容易な3回転フリップで両手をつく。「金は遠ざかったな」。失望感に、何とか踏ん張っての後半は「足が重い」「体力もきつい」。転倒で体力を削られ、演技後10秒以上も立ち上がれなかった。

転倒であきらめ

 「金はダメだな…」。その後、次の滑走だったチャンが立て続けのミス。前日SPで史上初の100点超えを果たした貯金が生きる。チャンの得点が下回り、残りは2人。取材エリアのテレビで、その時を待った。最終滑走者が演技を終えて優勝が決まると、「オーマイガッ ! 」。驚きと悔しさが混在し、忘れていた歓喜は表彰台で実感した。「感謝」が去来した。

 そして、まだ恩返しは十分ではない。「メダリストになれたからこそ、震災復興のためにできることを。ここからがスタート」と思いは先に。支えてくれたすべての人へ、歩む王者の道すべてをささげていく。

 「19歳でまだまだ若い。次の五輪も頑張ろうと思います」。また次の夢舞台でも、少し高い表彰台のてっぺんから、同じ光景を眺めてみせる。今度は心の底からの歓喜と、変わらぬ感謝を胸に。【阿部健吾】

ごちそうさましてから調味料なめていた

男子フリーで演技する羽生結弦。フィギュア日本男子初の金メダルに輝いた
男子フリーで演技する羽生結弦。フィギュア日本男子初の金メダルに輝いた

 羽生は「今季は風邪もひいてないし、故障もない。体調は大丈夫です」と誇らしげに話す。これまでは故障も含めた体調不良に悩まされた。13年は1年のうち3カ月以上も万全な練習ができなかった。

 その原因は、極限まで脂肪が削られた肉体。体脂肪率は3、4%で、細身の体は回転軸が細ければ細いほど高速回転ができ、ジャンプの安定につながる。半面、体の抵抗力が弱かった。スケート靴の硬さに、筋張った足首のくるぶしの外側に水がたまりやすく、抜いてはたまっての繰り返し。そんな体調が劇的に変化したのが今季だった。

 極端に言えば、これまでは一口食べて「ごちそうさま」。すし、焼き肉が好物だが、それは自分の量だけを取り分けられるから。小食は体質だと思っていた。筋肉量は減り続け、昨年1年で3㌔以上も痩せた。改善のきっかけは「うま味調味料」だった。

 今季から日本オリンピック委員会(JOC)が主導するプロジェクトで羽生の体調管理を担当する栗原秀文さん(37)が振り返る。「ごちそうさまをしてからも、調味料をなめていた。グルタミン酸ですから、胃腸が食事を欲しているというのを本人は感覚的に分かっていたんです」。普通の人より、胃腸の動き始めが遅い体質だったことは、調べてみて分かった。これが「食が細い」と思い込んでいた原因だった。

 昨年10月、胃腸の動きをスムーズにするために鍋物を中心に食事を変えた。効果はてきめんで、ゆっくりと、しっかりと食事を取れるようになった。健康を維持でき、過酷な連戦となった今季も、万全な状態で五輪までたどり着けた。

 3日にソチに来て、唯一のオフを取った団体戦男子SP翌日の7日。どう過ごしたか聞かれると「和食を食べました。鍋ですね」と満足げに話す姿があった。【阿部健吾】

>>ママ、どうだった? よかったよ、真央 : ソチ五輪プレーバック









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