今度は五輪の歴史を変える!

 テニスの14年全米でアジア男子シングルス初の準優勝に輝いた、世界ランク5位の錦織圭(25=日清食品)が、16年リオデジャネイロ五輪のテニス競技で、日本にとって96年ぶりのメダル獲得に挑む。熊谷一弥(故人)が20年アントワープ五輪で銀メダルに輝いた日本五輪最古のメダル以来、悲願の表彰台を狙う。20年東京五輪へも意欲を示しており、熊谷から100年を経て、錦織が五輪で輝く。

 世紀の歴史を塗り替える。14年、数々のアジアテニスの金字塔を打ち立てた錦織が、五輪でも96年のブランクを封印する。「五輪は、いつものツアーとは違った雰囲気と環境で刺激になる。出るからにはメダルを狙う」と、五輪にかける思いを常々語っている。

 初出場となった08年北京五輪では、悔しい1回戦負けだった。当時、124位で、世界ランクだけでは出場資格を得られなかった。期待の若手として、国際テニス連盟(ITF)の推薦枠を獲得しての挑戦だったが、「出場して初めて五輪のすごさが分かった」と重圧に敗れた。

 しかし、2度目の出場となった12年ロンドン五輪は世界17位での出場。3回戦では、同5位のフェレール(スペイン)から金星を挙げた。ウィンブルドンの五輪でセンターコートでプレーする貴重な経験を積み、5位に入賞した。「大きな意味がある結果だった。4年後はもっと強くなってメダルを狙う」。

 日本のテニスは、五輪史に輝く1ページを刻んでいる。20年アントワープ五輪のシングルスで熊谷一弥、ダブルスで熊谷と柏尾誠一郎が獲得した銀メダルが、日本初のメダルとなった。錦織も「その時代にテニスをして、メダルを取った人がいること自体、すごい」と、驚きを隠せない。

 だが24年パリ五輪を最後に、テニスは五輪競技から外れる。88年ソウル五輪で正式競技に復帰したが、日本のテニスは、熊谷と柏尾の歴史的な偉業以来、メダルから遠ざかっている。日本の五輪でメダルを獲得した競技としては、最長のブランクだ。その負の歴史を錦織が変える。

 テニスは、あくまで4大大会を中心とした世界ツアーの個人戦が基本だ。それでも「代表として戦うのは誇り」と、錦織は日の丸を背負う重みを力に変えるタイプだ。ジュニア時代は、代表戦で25勝2敗。一般のデ杯戦でも12勝2敗と、絶対的な強さを誇る。

 14年を世界5位で終えた。ビッグ4と呼ばれるジョコビッチ(セルビア)、フェデラー(スイス)、ナダル(スペイン)、マリー(英国)のうち、ナダル以外から勝ち星を挙げた。トップ10との対戦成績11勝7敗は、ジョコビッチ、フェデラーに次ぐ勝ち星の多さだ。

 リオデジャネイロ五輪が開かれる1年後には、現在の錦織を中心とした若手が今以上に台頭している可能性も高い。錦織もトップ10、トップ5をキープしていれば、堂々のメダル候補だ。それどころか、30歳になる5年後の20年東京五輪も視野に入れる。「最も脂が乗っている時。母国でメダルを取れるなら格別の思い」。

 88年ソウル五輪でテニスが五輪競技に復帰して以来、男子シングルスで2大会連続でメダルを獲得したのはゴンザレス(チリ)ただ1人。シングルスで2個の金メダルとなれば、男女を通じて史上初の快挙となる。最古のメダルから世紀を超え、錦織が日本の五輪史に新たな1ページを刻む。

 ◆錦織圭(にしこり・けい)1989年(平元)12月29日、島根県松江市生まれ。5歳でテニスを始め、13歳で米国にテニス留学。08年2月に日本男子史上2人目のツアー優勝を成し遂げた。12年全豪で、日本男子80年ぶりの8強入り。14年全米ではアジア男子シングルス初の4大大会準優勝の快挙を達成した。同年、やはりアジア男子シングルス初のツアー最終戦に出場し4強入り。日本男子最高位となる世界5位で14年を終えた。ロンドン五輪5位入賞。178センチ、74キロ。

 ◆熊谷一弥(くまがい・いちや)1890年(明23)9月10日、福岡県大牟田市生まれ。慶応大を卒業し、三菱合資会社に就職し、ニューヨークに駐在した。16年全米に三神八四郎とともに出場し、日本人初の4大大会出場となった。18年全米でベスト4。19年には全米で3位にランクされた。21年男子国別対抗戦デ杯に、日本は初参加。熊谷も代表となり、初出場で準優勝という快挙に貢献した。1968年(昭43)8月16日没。享年77。