11月27日、ヤクルトに敗れて日本一を逃し、スタンドにあいさつするオリックスナイン
11月27日、ヤクルトに敗れて日本一を逃し、スタンドにあいさつするオリックスナイン

今季の日本シリーズでもまた、残念ながら「バファローズ」の日本一はならなかった。この球団名の由来は、なんと個人の愛称である。巨人の二塁手として、果敢なプレーで「猛牛」と呼ばれた千葉茂氏(故人)がその人だ。04年の球界再編で、近鉄バファローズは姿を消した。オリックスが存続球団となっているが、近鉄の愛称「バファローズ」は現在も球界にその名を残している。今年はシリーズでヤクルトと名勝負を演じ、野球ファンに大いにアピールした。

2リーグ分立の1950年(昭25)に誕生した近鉄は、球団名公募を行い「パールス」と名乗っていた。世はまだ主権回復前。進駐軍兵士の間で我が国の真珠は人気を集め、それを多くの国民が知っていたことが背景にあったという。ところがパールスは最高位が54年の8球団中4位と、真珠の輝きを見せられずにいた。球団首脳は58年オフ、巨人のコーチだった千葉氏を監督に招いた。これを機に球団は、再び新チーム名公募を行う。応募総数の約8割という圧倒的多数で「バファロー」と決まった。62年に「バファローズ」と改め、今に至っている。

パールスからバファローにチーム名を変更した近鉄は、岡本太郎画伯がデザインした新球団旗を発表(1959年2月12日撮影)
パールスからバファローにチーム名を変更した近鉄は、岡本太郎画伯がデザインした新球団旗を発表(1959年2月12日撮影)

闘争心が売り物だった千葉新監督は、チームに巣くっていた負け犬根性の一掃に乗り出す。移動の国鉄(現JR)の座席を3等から2等にするよう球団に掛け合い、旅館代も倍増させた。飲み友達だった画家の岡本太郎氏に頼み、個性的なシンボルマークを作ってもらった。さらに阪神から田宮謙次郎の獲得を画策するなど精力的に動いたものの、3年連続最下位に終わり、61年限りで退任した。その後は評論家として活躍した千葉氏は、02年に83歳で死去した。

他界から2年後の球界再編に際し、同氏の香澄夫人に話を聞いたことがある。「主人は、近鉄の球団名が変わるとき『わしのあだ名がついたんだぞ』と本当にうれしそうでした。あのマークも、主人のお友達だった岡本さんがほとんど無料でプレゼントしてくださったんですよ。あの模様のついた帽子をかぶっていると、私には全員がすてきな方に見えます」。それを聞いて私は、3歳だった息子に猛牛マークの帽子を買ってやった。

近鉄バファローズは、4度のパ・リーグ優勝はあったものの、日本シリーズではすべて敗退し球界から消えた。とはいえ今後オリックスが球界の頂点に立てば、それはまぎれもなく「バファローズ初の日本一」である。香澄夫人は「01年のヤクルトとの日本シリーズは、自宅で身動きひとつせずにテレビ観戦していました」としみじみと述懐していた。生涯にわたりバファローズの日本一を願い続けた闘将に、来季こそ報いてほしい。【記録担当 高野勲】

近鉄の千葉茂監督(1961年撮影)
近鉄の千葉茂監督(1961年撮影)