阪急・オリックスの強打者だった石嶺和彦氏(62)の野球人生に、多大な影響を与えたレジェンドが亡くなった。1月24日に、74歳での死去が伝えられた門田博光氏である。門田氏は89年から2年間、オリックス・ブレーブス(現バファローズ)に在籍。石嶺氏のチームメートとなった。

門田氏は、40歳だった移籍前年の88年に南海(現ソフトバンク)で44本塁打、125打点で2冠を獲得した。「不惑の大砲」は流行語にまでなった。

ところが南海が球団をダイエーに売却し福岡へ移転させたため、在阪球団での現役続行を希望。阪急を買収したオリックスへの移籍が決まった。

それまでの石嶺氏は、若き指名打者として地位を固めていた。86年には56試合連続出塁を記録し、87年には6試合連続本塁打を放った。前年88年まで、通算121本塁打。年齢も28歳と、脂の乗り切った時期だった。

つまりオリックスは、有力な指名打者候補を2人抱える形となった。

石嶺氏は「もちろん最初は驚きましたよ。でも、決まったことですから、すぐに『レフトを守るしかない』と気持ちは切り替わりましたよ」と振り返る。一方の門田氏も、石嶺氏に「シーズンの半分は俺もレフトを守る。迷惑はかけたくない」と伝えたという。

89年に左翼を守った試合数は、門田氏51試合に対し石嶺氏64試合。90年には門田氏が42歳となるため、石嶺氏は全試合レフトと腹をくくった。

「これがものすごい効果を生みました。早めに球場に来てノックを受けたりし、体を鍛え直すことができたんです。DHは意外と時間の過ごし方が難しくてね。ベンチ裏のテレビで、阪神戦の中継を見たりしていましたよ。守備に就くようになり、試合の流れに乗ることができました」

打撃に加え守備練習の時間も増え、体の切れも出てきた。石嶺氏はこの年、106打点でタイトルを獲得。また外野手としての補殺14は、愛甲猛(ロッテ)と並びパ最多と、守りでも結果を残した。プロ入り当初まで務めていた捕手時代に鍛えた送球技術は、さびついていなかった。

門田氏は90年限りでオリックスを退団。ダイエーへ移籍し、ホークス復帰を果たした。発表前に石嶺氏には「2年間ありがとう。ホークスに戻る。来年から守らなくてええぞ」と感謝の言葉を伝えたという。

この2年間は石嶺氏の野球人生にとって、重要な「伏線」にもなった。守りで自信を持った石嶺氏は93年オフ、FA宣言し阪神へ移籍。94年には全130試合に出場し、128試合で外野を守っている。

「あのとき門田さんが来てくださっていなかったら、ずっと指名打者だったと思います。2年間守ることで勘が戻ったからこそ、DHのないセ・リーグでやれると思ったんです」と石嶺氏は述懐する。

何が幸いするか分からない。球史に残るレジェンド門田さんは、意外な形で後進に好影響を与えていた。

【記録室 高野勲】(スカイA「虎ヲタ」出演中。22年3月のテレビ東京系「なんでもクイズスタジアム プロ野球王決定戦」準優勝)

1993年12月8日、阪神FA入団会見で中村勝広監督(右)、三好一彦球団社長(左)と握手する石嶺和彦
1993年12月8日、阪神FA入団会見で中村勝広監督(右)、三好一彦球団社長(左)と握手する石嶺和彦