鮮烈なメジャーデビューからさかのぼること半年前の1994年12月。近鉄との契約更改が決裂し、退団が決まった際、野茂の周囲には強烈な逆風が吹き荒れていた。「メジャーで通用するわけがない」「裏切り者」「非国民」。近鉄側の主張を支持したマスコミだけでなく、ファンからも口汚いバッシングが続いた。あまりの反応に、代理人を務めた団野村氏は、何度か野茂の意思を確認したという。だが、野茂の返事はシンプルだった。

「これで行きます」

95年2月、ドジャース入団会見で、左から団野村氏、ピーター・オマリー会長、野茂
95年2月、ドジャース入団会見で、左から団野村氏、ピーター・オマリー会長、野茂

近鉄首脳陣との確執が深刻化していた当時、野茂は徐々に米国移籍をイメージし始めていた。では、どうすれば実現できるのか。知人を介し、団野村氏と連絡を取り、方策を探った。同氏が米国の代理人資格を持つとはいえ、当時の日本球界では代理人交渉は認められていない。そこで、野茂側はルールの確認を進めた。日米両国の協約を照らし合わせた結果、「任意引退選手」の扱いに違いがあることが判明した。

任意引退選手になると、最終所属球団が保有権を持つため、他球団ではプレーできない。だが、当時の協約では米国をはじめ他国に関する規定は存在しなかった(1998年改正)。そこが、盲点だった。NPBの金井事務局長(当時)やメジャー球団の言質を取り、さらに米国の有力代理人アーン・テレム氏が吉国コミッショナー(当時)に書面で問い合わせ、「任意引退選手は米国でプレーできる」との確約を得た。

第2段階は、いかにして任意引退選手になるか、だった。最多勝のタイトルを獲得しても年俸の現状維持を提示されるなど、近鉄首脳陣の姿勢は強硬だった。そこで、野茂側はFA(フリーエージェント)となるまでを保証する6年契約を主張した。“上から目線”だった球団側が受け入れるはずもなく、交渉は完全に決裂した。

当時、日本球界で長期契約の前例はなく、野茂の主張は異端として受け取られた。メジャー挑戦も、年俸つり上げの駆け引き材料と見なされた。だが、野茂は本気だった。どの球団とも交渉可能な自由契約ではなく、脅しにも近い任意引退選手の書面を示された時点で、メジャーへの道筋は定まった。

その後もバッシングは続き、野茂は孤立した。ただ、ルール上の問題はない。

「やっていることは間違っていない」

逆風が吹けば吹くほど、野茂の反骨心は強固になっていた。【四竈衛】

(つづく)