1995年のMLBデビュー後、「トルネード旋風」を巻き起こし、パイオニア、レジェンドと呼ばれるようになったとはいえ、野茂のメジャー人生は、順風満帆だったわけではない。むしろ、逆風との闘いと言ってもいい。

02年9月、パドレスとのシーズン最終戦で、ドジャース野茂は国歌斉唱を真剣な表情で聞いた
02年9月、パドレスとのシーズン最終戦で、ドジャース野茂は国歌斉唱を真剣な表情で聞いた

日本でのメジャー移籍騒動後も強烈なバッシングが続いたことで、メディアとの関係もぎくしゃくし、自然と野茂の口も重くなっていった。それでも、大活躍する野茂を必死で追いかけるため、小競り合いも少なくなかった。96年の日米野球で帰国した際には、球場駐車場で殺到するカメラマンの1人から、代理人の団野村氏がフィルムを返却させるなど、緊張感が漂うこともあった。日本では普通でも、米国では駐車場はプライベート空間で撮影はご法度。日米間の常識のズレが、溝を深めることにもつながった。

山あり谷ありだった。ドジャースで4年目となった98年、入団当時から家族のように慕っていたオーナーのピーター・オマリー氏が、球団をフォックス・グループに売却。経営陣が一変したこともあり、環境を変える上でもトレードを直訴し、シーズン中にメッツへ移籍。もっとも、翌99年のキャンプでは初の戦力外通告を味わった。その後、マイナー契約を結んだカブスでは、3Aで好投しながらも昇格を見送られて退団した。

それでも、野茂はくじけなかった。同4月末に契約したブルワーズでは、ローテーションの柱として12勝8敗と活躍。鮮やかに復活した。レッドソックスに移籍後の01年には、自身2回目のノーヒッターを達成。古巣ド軍に復帰すると、2年連続で16勝をマークし、再びロサンゼルスのファンを熱狂させた。

スポットライトを浴びた全盛期とは対照的に、去り際は静かだった。06年から2年間は故障にも悩まされ、メジャーで登板することなく終わった。迎えた08年7月。ド軍を除く29球団から勝利を挙げた個性派右腕が、現役引退を発表した。「プロ野球選手としてお客さんに見せるパフォーマンスは出せないと思う」。引退試合も正式会見もない。派手なイベントを好まない、シャイな野茂らしい幕引きだった。

野茂の生きざまを近くで見つめてきた代理人の団野村氏は、その意思の強さの一端として「マスコミに見せる顔が全然変わらなかった」と笑う。その一方で、「決断したら、後ろを振り向かない。(米挑戦は)彼だからできたのかなと思います」と振り返る。

度重なる逆風に立ち向かってきた野茂の投球フォームは、竜巻を意味する「トルネード」と呼ばれた。球界に旋風を巻き起こした野茂。ふさわしいニックネームだった。【四竈衛】