東京オリンピック(五輪)の野球・ソフトボール競技は福島県あづま球場で開幕する。福島市出身のプロ野球西武鈴木哲チーム戦略グループディレクター兼スタッフ長(57)は、最強世代の一員として88年ソウル五輪で銀メダルを獲得した。福島から五輪に出た人、福島で五輪の準備をする人-。2回にわたり、それぞれの思いを聞いた。

西武鈴木哲チーム戦略グループディレクター兼スタッフ長
西武鈴木哲チーム戦略グループディレクター兼スタッフ長

「ちょうど僕、東京五輪の年に生まれたんです」。64年に生まれた鈴木の福島市内の実家には、ソウル五輪の銀メダルが飾られている。「ああいうのって、自分より周りの人がうれしいんだと思います。重大性とか、すごいメンバーだったんだなっていうのは後から感じたことが多いかな」。

88年9月、ソウル五輪の米国戦後に記念撮影する日本代表
88年9月、ソウル五輪の米国戦後に記念撮影する日本代表

社会人選手として出場した33年前、アマだけで組まれた日本代表はそうそうたる顔触れだった。野茂英雄、古田敦也、野村謙二郎と後の名球会入りが3人。代表20人のうち13人がプロ入りした。最強世代と名高い。「古田くんはね、大学の時から一緒に(代表で)アメリカ行ったりしてたんですけど、野茂くんや潮崎(哲也)くんはハタチ前後で、子どもっぽく見えた。ただマウンドに上がると人が変わった。勝負師として厳しいものを持っていた」。

84年ロサンゼルス五輪に続く公開競技として開催された。ロスには慶大の先輩も出場し、金メダルを持ち帰った。「まさか自分が出るとは思わなかった。公開競技だからいいかげんにやるって気持ちは全くない。勝負事が好きで野球選手になっている部分もある。優勝を狙う雰囲気はありました」。目指すは2連覇。予選リーグを3戦全勝で突破し、オランダ戦に登板した。準決勝の韓国にも逆転勝ち。だが決勝で、完投した米国の隻腕アボットに敗れた。

88年ソウル五輪メンバー
88年ソウル五輪メンバー

大学2年生の時に初めて米国キャンプを経験してから、海外遠征は楽しかった。「苦労はなかった。レベルの高い相手に向かっていくのも、知らない文化を見るのも楽しくて」。福島高から慶大に進学した時も、法大や明大に甲子園のスターがたくさんいて感動した。さらに精鋭ぞろいが日本代表。その経験自体が、後の人生に大きく影響したことはない。ただ、これは言える。「名誉というものをいただいた」。

今その五輪が、地元・福島市で開催されようとしている。会場となるあづま球場は86年に完成した。東北6県でも最大規模だった。「随分きれいな球場ができたんだなあ」と思った。1度だけ、投げたことがある。「広島にいた時、ヤクルト戦で先発しました。ノックアウトされたんですけど。3回で降りたのかな。直前までずっと調子よく来てたところで、足をすくわれた試合になっちゃった」。

監督があえて故郷で投げさせてくれたのか、ローテの都合でたまたまだったのかは分からない。でも「田舎でプレーができるっていうのは、身近な人が見に来てくれる。張り切るところはあった」。家族や友人に、プロで投げる姿を見てもらえた。五輪もそうだ。「国際大会を田舎でやってくれるのはなかなかない。ただね、人がどれだけ見に行けるのかなって」。

復興五輪という言葉も、少し引っ掛かる。「実際、どこまで復興しているかっていうと厳しい見方をせざるを得ない。世界にあらためて福島の名前が出るのは悪いことじゃない。ありがたい気持ちもあるんですけど、そこを結び付けるのはどうなのかなっていうのは、正直。“東京”五輪なんで」。無事に開催されれば選手を応援し、勝って、一緒に喜びたい。ただ、やれるのか。有観客か、無観客か。現場で準備を進める人の胸中も複雑だ。【鎌田良美】(敬称略=つづく)

◆鈴木哲(すずき・てつ)。1964年(昭39)1月22日生まれ、福島市出身。福島高、慶大、熊谷組を経て89年ドラフト2位で西武入団。94年に広島移籍。96年から西武に戻り、97年引退。西武でスカウトなど担当。プロ通算84試合で7勝13敗1S、防御率4・01。右投げ右打ち。