全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える今夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫るシリーズ2「監督」の第15弾は、池田(徳島)を率いた蔦文也さんです。

 01年に77歳で亡くなった蔦さんは「攻めダルマ」の異名をとりました。豪快な打撃のチームで82年夏と83年春を連覇するなど、甲子園の優勝3回。実は蔦監督の野球への取り組みは繊細さがあふれていたことを折り込み、山あいの町の県立高校野球部が全国区で戦った物語を全5回でお送りします。

 3月14日から18日までの日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカン・コムでは、連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。

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 最後に会ったのはいつだったか、思い出せないままです。池田高校野球部の蔦文也元監督が亡くなったのは01年だから、もう15年以上答えが見つかりません。

 池田の甲子園夏春夏3連覇なるか注目されたのは83年夏。その年6月から紙面連載のため密着取材したのが始まりで、以後10年ほど山あいの町をよく訪ねました。

 出張伝票を出すたび当時の編集局長に「また徳島へ行くのか」と呼び出され、「今年も高校野球の季節が来るんだな」とハンコをもらったものです。

 蔦監督に、池田高校内や同校のグラウンド、甲子園に来るとよく練習場にしていた西宮東高校グラウンドなどで、たくさんの話を聞いた。ある時など「ちょっと一緒に来んか」と言われ、ついて行くと、雑誌「酒」編集長の佐々木久子さんと会食だったこともありました。

 不祥事のため84年センバツの推薦を辞退すると、高校にマスコミが押し寄せた。蔦監督が会見。終わって会見場の教室を出る時に、モーニングショーの司会者がなにやら質問を投げかけ、蔦監督は反応せずその姿は見えなくなった。すぐにこの司会者が、ビデオカメラと集音器を持ったスタッフに言ったのが「おれの声、ちゃんと録れた?」。こういうことも、記憶に残っているものです。

 池田町の旧家である蔦監督の自宅にちょくちょく上げてもらった。83年のドラフト会議前に水野雄仁投手の進路を取材中、その自宅を水野投手の両親が車で訪ねて来るところに遭遇。張り込んで、話が終わって出てきたところを直撃したことも懐かしい思い出です。

 最後に会ったのがいつかは、何かの拍子に判明するかもしれない。それまでは、いろいろな事柄を思い起こしていくつもりです。

 こんなこともあった。

 ずいぶん以前、甲子園大会の試合前取材は、ひとつ前の試合が終盤に入るまでほぼ自由で、長いすに腰掛けていた蔦監督の隣に座ると、こう話しかけられた。

 「世阿弥が、こういうことを言うておるんじゃ」

 あとに続いた内容は、思い出せないままですが。【宇佐見英治】