夏の地方大会決勝で敗れること10度。北北海道の旭川東は、甲子園未出場校としては全国最多の準優勝を積み重ねている。日本プロ野球初の300勝投手となったビクトル・スタルヒンも当事者だった惜敗の歴史がある。

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 85年前の夏。ロシア革命で旭川市に亡命してきたスタルヒンは旧制旭川中(現旭川東)の2年生エースだった。33年北海道大会準決勝の函館商戦で18奪三振の完封勝利。北海道高野連50年史「白球の証」に当時の朝日新聞記事として「安打かと思はれた球を、スタルヒン恐ろしい勢ひで飛び上って見事にキャッチ。身長6尺2寸の彼が飛び上るのだからたまらない」(原文まま)と記されている。

 当時188センチの右腕は注目を集め、決勝は北海中(現北海)から12奪三振も味方の9失策に泣き、3-5で敗れた。翌34年も決勝で札幌商(現北海学園札幌)から11奪三振。被安打2に抑えたがチーム5失策が響き3-4で敗退。「白球の証」には「あの守備ではスタルヒンがいくら頑張っても如何とも出来なかったらう」(原文まま)と、当時球審を務めた函館太洋倶楽部の名捕手・久慈次郎のコメントが残っている。

 旧制中学は5年制で、翌年の甲子園出場が確実視されたが、スタルヒンは中退し巨人入り。北海道の決勝で2度敗戦の歴史を残し、学生野球を去った。スタルヒンの時代を含め、旭川東の決勝敗退は1926年を皮切りに通算10度。ジンクスは振り払えないまま時は刻まれている。

 最後に決勝進出したのが69年。主戦は2年生の丸山幸司だった。中堅手だったが打撃投手を務めた際、キレのあるシュートで木製バットを次々に粉砕。外野に打球が飛ばないため左翼手が守備位置で英単語の暗記をしていたという逸話が残るほど。丸山が投手に転向し、北北海道大会決勝まで6試合中4度のサヨナラ勝ちで快進撃を続けた。

 甲子園へ、10度目の挑戦に旭川市民は盛り上がり、滝川市営で行われた芦別工との決勝当日は凱旋(がいせん)パレードが計画されていた。だが、無安打で1-2の敗退。決勝の1点差負けは3度目だった。

 丸山 当時は決勝に行っただけで喜んでいた。それぐらいのチーム力。2年生もそっくり残っていたし、来年だなと思っていた。

 翌70年の夏、旭川地区代表決定戦(対旭川龍谷)で悲劇が起きた。試合前のシートノックで監督の春日満夫の打球が丸山の右肘に直撃。丸山は先頭打者を抑えただけで交代を余儀なくされ、5-6で敗れた。現在65歳の丸山の気持ちを74歳の春日がおもんぱかる。

 春日 納得していないだろうね。丸山は結局、3年生で(投げきった試合は)負けていない。まさかあれから50年、長いね。10回いったら1回ぐらい間違ってでも行くんだけどね。

 今年の正月、旭川東ナインは旭川市内のスタルヒン球場に行き、母校の英雄の銅像前に積もる雪をきれいに払った。新年の初練習日の恒例行事だ。野畑尊裕主将(3年)は「スタルヒンさんという偉大な先輩ができなかった甲子園で勝つことを目指したい」。創部115年。スタルヒンを冠した球場で悲願の聖地切符を目指す。(敬称略)

【浅水友輝】


 ◆夏の地方大会決勝の主な連敗 甲子園未出場校では旭川東の10連敗のほか、米沢中央(山形)鹿児島城西(鹿児島)が5連敗中。センバツのみの出場校では豊田西(愛知)高田(奈良)新田(愛媛)が6連敗、高崎(群馬)鎌倉学園(神奈川)日高高中津分校(和歌山)などが5連敗している。二松学舎大付(東東京)は14年に決勝で勝つまで10連敗していた。


3月、室内練習場で練習に励む旭川東ナイン
3月、室内練習場で練習に励む旭川東ナイン