09年夏に、新潟県勢初の甲子園決勝を戦った日本文理の足跡をたどる。決勝で6点ビハインドの9回2死走者なしから、1点差まで追い上げる名勝負を演じた。「弱小県」のレッテルを覆す攻撃野球の源流には、昨夏限りで勇退した大井道夫前監督(76)の「メジャー仕込み」があった。

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 1977年8月8日、大井はドジャースタジアムにいた。パ・リーグ広報部長の故伊東一雄らと大リーグ観戦ツアーに参加。ピート・ローズ、ジョニー・ベンチらを擁して前年まで2年連続世界一のレッズと、この年ナ・リーグを制したドジャースの戦いに目を奪われた。

 大井 日本人とは脚力が違うし、打球も速い。当時はチーム作りに生かそうなんて、考えもしなかった。

 86年秋、栃木・宇都宮にあった家業の料理店を夫人に任せ、創立間もない新潟文理(現日本文理)で、45歳にして初めてフルタイムの監督に就任した。68歳の夏に、「ビッグレッドマシン」のレッズをほうふつさせる強力打線が、甲子園でドラマを演じた。

 大井 イケイケだよ。サインなんて必要なかった。

 中京大中京(愛知)との決勝は、4-10の9回2死走者なしから、19分以上も粘った。3四死球も絡めて4本の適時打で1点差まで迫った。スタンドから自然発生した「伊藤コール」の中で2点打を放ったエース伊藤直輝(26=現ヤマハ投手)は、「100回くらい取材された。全部話し尽くしたので、受け答えもインプットされている」と苦笑するほど、今も強烈なインパクトで語り継がれる。

 大井は選手としても、宇都宮工エースで59年夏に準優勝。ただ大会中、援護は1試合で2点が最高で、西条(愛媛)との決勝も2-2の延長15回に力尽きた。

 大井 打てるチームにあこがれた。新潟はいい投手がいるときは勝てても、打撃戦では勝てない。北信越大会でも「新潟にはカーブだけでいい」と研究すらされなかったから、悔しいじゃない。

 その思いを強くしたのが、夏甲子園3度目の出場となった04年。準優勝した済美(愛媛)の練習後、厚意で借り受けた打撃マシンに驚いた。

 大井 150キロは出ていて、かすりもしなかった。こういう球を打てないと、甲子園では勝てないのかと。刺激になったね。

 06年に新潟勢としてセンバツ初勝利。09年は5度目の出場で夏初勝利を挙げると、県勢初の準決勝にも勝ち、球史に残る決勝を戦った。準々決勝の立正大淞南(島根)では、大会史上初の2試合連続毎回安打もマーク。練習時間の8割以上を費やした「打撃のチーム」が花開いた。14年夏も4強。90回大会まで1大会2勝が最高成績の新潟勢だが、日本文理は過去9年で1大会4勝を2度記録した。

 大井は昨夏の甲子園に出場し、国体を最後に勇退した。昨秋は「元気なうちにワールドシリーズを見ておきたい」とドジャースタジアム再訪の準備を進めたが、体調面を考慮して断念。「楽しい野球だった。もう1回、ああいう野球を見たいな」。41年前には想像できなかった日本人メジャーの活躍に、渡米の思いを募らせている。(敬称略)【中島正好】

 ◆新潟の夏甲子園 通算28勝57敗。優勝0回、凖V1回。最多出場=中越10回。

現在は日本文理の総監督として、ネット裏で静かに選手の動きを見守る大井氏
現在は日本文理の総監督として、ネット裏で静かに選手の動きを見守る大井氏