98年7月18日、青森県総合運動公園野球場。青森だけでなく、全国の高校野球ファンの記憶に残る、深浦(現木造高深浦)0-122東奥義塾。今後も破られることがないだろう大差。打者149人、86安打(本塁打7、三塁打21、二塁打27)、30四球、3死球、78盗塁。サイクル安打も5人。公式記録完成まで、約3時間を費やした。深浦ナインにとっては、苦しみながら戦い続けた3時間47分だった。

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 青森朝日放送の生中継時間枠に収まらず、歴史の証人は“現場”だけだっだ。2回終了0-49で放送が打ち切られる前に、青森県高野連事務局長の渡辺学(現青森県教育庁)の携帯電話が鳴った。「『大変なことになっていて、何点入るか分からない。すぐに来てください』って言われて、急いで車で向かったんです」。非常事態だった。

 到着後は日本高野連とも電話で連絡を取り合った。試合を続行すべきかどうか悩み、相談した。日本高野連からの回答は「高野連側からは試合を止めることはできない」。0-93で5回終了後のグラウンド整備中、深浦監督の工藤慶憲(現青森県教育庁)がいるベンチに向かった。決断を投げかけようとしたのは、工藤も同じ気持ちだった。

 工藤は10人の選手を集めた。「ここで終わり(放棄試合0-9)にすることもできるぞ。どうする?」。続けるか否か、意見を聞いた。選手らは顔を見合わせながら、9人が「監督に任せます」。だが、エース佐藤勝敏投手(3年)だけは「応援してくれている人のためにも続けたい気持ちもあります」と言い切った。

 すでに黄金崎賢外野手(1年)は「もう目が見えません」と訴えていた。4月時点で部員は4人。大型連休前に中学で柔道、卓球、帰宅部などだった1、2年生を寄せ集めた集団。10人中、野球経験者は3人だけ。気力も体力も限界だったことは明らか。「質問を投げかけた時点で私の気持ちは『やめる』と決めていた。途中で投げ出すことは前例にないですけれど、これ以上続けたらケガをするなと。みんなフラフラでしたから。安全面を一番に考えていました」。公平な立場で試合進行を貫いた神洋司球審の「さあ、行きましょう」のひと声で6回表が始まった。場内の観客からも深浦ナインへの声援が一層高まった。

 工藤 6回、7回も10点以上取られましたけれど、選手の動きは見違えるほど良かった。お客さんの声援も背中を押してくれた。選手が最後まで頑張り続けたことだけは確か。今となれば、続けて良かったかなとも思える。

 精根尽き果てた122失点だったが、得るものも多かった。チームは翌日から再始動。工藤は選手の目の色が変わったことも感じた。「それまでは、いかに部員を減らさないかの練習でした。ある意味、本気の練習ではなかった。勝つためにつらい練習をやるのか、やらないのかって。線を引いて『やる人はこっちに来い』って」。1、2年生7人全員が同じ方向を向き、練習時間は倍増した。内容も徐々に厳しくなった。

 秋季大会は人数不足で出場できなかったが、翌春に再出場。勝利は遠くても「0-122」経験者全員が3年夏まで野球を続けた。最後まで続ける意義。仲間や誰かのために力を尽くす意義。1年生でフル出場した松岡拓司捕手は、部活動と勉強の両立に努力し、卒業後は国立の秋田大進学を勝ち取った。すし店修業など、全員が地元深浦町を離れて新たな道へ巣立った。

 一方、122点を奪った東奥義塾にとっても試練はあった。悪夢の始まりでもあった。(敬称略=つづく)【鎌田直秀】

 ◆青森の夏甲子園 通算45勝58敗1分け。優勝0回、凖V3回。最多出場=青森山田11回。

98年7月19日付・日刊スポーツ東京最終版
98年7月19日付・日刊スポーツ東京最終版
3時間47分、7回コールドで試合終了
3時間47分、7回コールドで試合終了