第1回大会から「白河越え」のチャンスはあった。夏の甲子園の前身に当たる「第1回全国中等学校優勝野球大会」は1915年(大4)に大阪・豊中球場で行われ、各地の10代表が参加。決勝に進んだ秋田中(現秋田高)は京都二中(現鳥羽)に延長13回サヨナラで敗れ、準優勝に終わった。最後の失点にからんだ秋田中の一塁手・信太貞(しだ・さだか)の息子、聡一(84)に話を聞いた。

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 聡一は中学2年の時に学校で知らされるまで、その事実を父から聞かされることはなかった。

 聡一 先生が教えてくれた。秋田中の決勝は最後、一塁手のエラーで負けたと。席の後ろから「信太のおやじだ!」と声が上がるわけ。家に帰って確かめようとしたけど、おやじは病気で寝たきり。その数週間後に亡くなってしまった。

 1-1の延長13回裏、京都二中1死二塁。二塁に上がった小飛球を斎藤長治がワンバウンドで捕って一塁の信太へ。低めの送球をファンブル。すぐさま捕球した信太はホームへ送球するも間一髪間に合わず、二塁走者の生還を許した。

 決勝点を許すサヨナラ失策は、一塁手の信太に記録された。だが諸説残っており、真相は闇の中だ。二塁手の斎藤は大会前に加入した急造選手。ワンバウンドで捕った後、慌てて低めに一塁へ投げた送球自体が悪かった、という説もある。

 聡一 セカンドが悪いと言ってくれる人もいる。そうかもしれないが、そちらにも家族がいるんだから、と思ってしまう。誰が悪いということはない。100年も前のことだし。

 聡一は15年5月に新たな資料写真を目にした。最後の場面で一塁手の信太が必死に二塁からの送球を止めている1枚だ。左足を一塁ベースに着け、右足を宙に浮かせながら低い送球を前かがみで捕球していた。京都二中の打者走者・津田は、信太の股の間に滑り込み、その左手は足に絡みついている。

 聡一 おやじは体を張って送球を止めた。この後、よくホームに投げたなあ、と。誰がエラーしたかは、どうでもいい。おやじはよくやったと思う。

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 第1回から100年たって迎えた2015年夏。当時の日本高野連会長、奥島孝康は開会式で100年前の決勝戦後にとった秋田中の振る舞いを引用し、高校野球の在り方を説いた。

 奥島 秋田中は悔し涙を潤ませながら、京都二中に拍手を送った。グラウンドを去る時には、京都軍に向かってバンザイと連呼した、と当時の新聞には書いてあります。この態度こそ、その後の高校野球の態度を決定したといっても過言ではない。

 当時、開会式をテレビで見ていた聡一は亡き父の姿を回想し、目を細めた。

 聡一 おやじっぽいな、と。武士の精神と一緒。人との争いを好まなかった、おやじの生きざまそのものだと思う。

 優勝を逃した貞の胸中を吐露する文献が残っている。秋田に帰った後、校誌「羽城」にしたためていた。

 「悪戦苦闘十三合、刀折れ矢尽きて我軍万事休して戦の終った瞬間、余は忘れんとして忘れ能はざる光景である。吾れらは帰途の電車の内、宿舎に入っても只出づるものは涙のみであった(一部省略)」

 悔しさを胸にしまいつつも、秋田中のメンバーは優勝した相手にエールを送った。そのフェアプレー精神は、第100回大会を迎える現代の高校野球にも、脈々と受け継がれている。(敬称略)

【高橋洋平】

▽1915年・第1回大会決勝

秋田中

 000 000 100 0000  1

 000 000 010 0001x 2

京都二中

【秋】長崎―渡部【京】藤田―山田

 ◆秋田の夏甲子園 通算41勝72敗。優勝0回、準V1回。最多出場=秋田19回。

1915年8月、延長13回裏京都二中1死二塁、一塁信太貞(上)が二塁からの送球を捕球する場面(河北新報社「日本の野球発達史」提供)
1915年8月、延長13回裏京都二中1死二塁、一塁信太貞(上)が二塁からの送球を捕球する場面(河北新報社「日本の野球発達史」提供)