負ければ全国ワーストの夏初戦14連敗-。11年夏の甲子園で能代商(現能代松陽)は重圧の中、1回戦で神村学園(鹿児島)を5-3で破り、連敗を止めた。元阪急投手で通算284勝を挙げた山田久志(69=日刊スポーツ評論家)と親戚関係の4番・山田一貴外野手(3年)が3安打1打点と気を吐き、不名誉記録更新をまぬがれた。

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 大舞台に強い山田家のDNAが、打たせてくれた。1-3の6回、4番山田が右前適時打を放ったのを皮切りに一挙4得点で逆転。秋田の負の連鎖を断ち切った。祖父の久信と山田久志がいとこ同士。中3時には下手でなく上手で投手にも挑戦したが、制球が定まらずに断念した。それでも山田久志に書いてもらった「栄光に近道なし」の色紙を実家に飾り、地道に続けてきた努力が実った。

 山田 初戦の2日前に宿舎で山田さんに激励されました。「堂々とプレーしろ」と。正直、山田久志さんの親戚と言われて多少のプレッシャーはありました。初戦に勝って「ご褒美で高い料理が食べたい」とおねだりしたんですけど、実現してないですね(笑い)。

 運命がリベンジの舞台に引き合わせた。前年夏の甲子園では、神村学園と同県の鹿児島実に0-15と大敗し初戦敗退。山田は3三振に終わっていた。抽選会では主将として最後に残った2枚からくじを引き、鹿児島勢を引き当てた。

 山田 自分は持ってるなと。鹿実に負けてから悔しくて1年間練習してきたし、鹿児島勢と戦えるのがベストだった。

 屈辱がバネだった。新チームから主将に就任。朝6時半にグラウンドへ一番乗りで打撃練習を行い、帰りは午後11時まで黙々とバットを振り込んだ。初戦突破後「1年間の成果が出た、うれしい」と目を赤くしたのは、率先垂範でチームをけん引した主将の重責を、全うしたからだった。

 山田 勝った瞬間、県勢の連敗を止めた実感は全くなかったけど、宿泊先に戻ったら電話が鳴りやまなかった。県民の思いに応えられて、ホッとしました。

 孤独とも闘っていた。母基子は山田を産んだ6カ月後、乳がんに苦しみ35歳で息を引き取った。父義信も中学時に白血病により48歳で亡くなった。そんな山田を支えていたのは、一緒に暮らしていた祖父母の存在だった。祖母しげ子からは常々「友達とは分け隔てなく接して、大事にしなさい」と言われて育ってきた。

 山田 主将としてはチームワークを意識して戦いました。最後、甲子園の3回戦で負けた時はみんなで号泣できて良かった。負けたのが悔しいんじゃなくて、このメンバーでもう野球ができないと思うと寂しかった。野球を通じて出会った仲間は、一生の宝物です。

 24歳になった今でも、あの熱狂的な夏を思い出す。現在、山田はJR秋田に勤め、硬式野球部に所属。車掌として働きながら、仕事と野球を両立している。

 山田 大好きな野球にだけに集中させてもらえた甲子園という空間は幸せでした。夏になると、今でも車両で声を掛けられますね。(敬称略)【高橋洋平】

JR秋田で車掌として勤務する山田一貴
JR秋田で車掌として勤務する山田一貴
山田久志氏
山田久志氏