71年夏の甲子園は「小さな大投手」に沸いた。磐城(福島)のエース田村隆寿(3年)は165センチ、62キロの小柄な体格ながら、正確無比の制球力で力投した。初戦で当たった優勝候補の日大一(東京)に始まり静岡学園、郡山(奈良)を3戦連続完封。桐蔭学園(神奈川)との決勝戦では大会34イニング目に初失点し、0-1で敗れた。東北初の深紅の優勝旗を逃した、悔やんでも悔やみきれない1球があった。

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 65歳を迎えた田村は、47年前の決勝戦で投げた「あの1球」の記憶が今でも、鮮明に残っている。0-0の7回裏、右中間に長打を浴びて迎えた2死三塁のピンチ。カウント1-2から投じた4球目。内角を狙って投げた、落ちるシンカーが変化せずに甘く入った。大会通じて唯一の失投を左中間にはじき返され、痛恨の決勝点を奪われた。

 田村 投げた瞬間、あっ、打たれるっと思った。死球で当たってくれと。点を取れるチャンスを2回も逃していたし、1点取られたら負けだなと思った。

 「小さな巨人」は急造だったが、制球力は抜群だった。中学は投手で、高校入学後は主に野手だった。高2で出場した夏の甲子園では正捕手を任され、高3の5月から本格的に投手へ転向した。投球練習で100球以上投げ込んだ後に、10球連続ストライク投球を課して制球力を磨いた。球速は120キロ台ながら、生命線の外角低め直球はコースにズバズバ決まる。甲子園4試合で四球は1度も出さず、内角を突いた2死球だけ。準決勝までの3戦では打たれた18安打すべてが単打で、27回連続無失点に抑えていた。その田村の針の穴をも通すコントロールが、なぜ微妙に狂ったのか。

 田村 2球で簡単に追い込んで、3球目に投げたウエストが滑った。ボールを交換してほしかったんだけど、あの頃は審判が絶対だった。ボールを替えてくれって言えなくて、そのまま投げた4球目が縫い目に指がかからなかった。ランナーがいたから、早く勝負したかったんだろうね。もう1球遊ぶか、アウトコースぎりぎりに投げるか。結果的に投げ急いじゃった。

 前評判を覆しての準優勝だった。主将田村が抽選会で引いた初戦のくじは優勝候補の日大一だった。会場からは「かわいそうに」とため息が上がるほど。それでも田村は動じるどころか、むしろ自信があった。高3の5月から投げ始めた新球シンカーを、本番前には自在に操れるようになっていた。

 田村 シンカーは夏に入るまでは投げてみないと分からない球だった。県大会では7割ぐらいしか制球できなかったけど、甲子園では浅く握るか深く握るかで、シュート気味に内角をえぐることもできたし、落とす時は落とし幅までコントロールしていた。

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 決勝2日後には、地元いわきでパレードが行われた。田村は日本代表合宿で参加出来なかったが、約20万人が参列した。指導者に転身後は79年夏、82年夏には安積商(現帝京安積)を、85年夏には母校磐城を甲子園に導いた。「小さな巨人」は選手としても、監督としても聖地の土を踏んだ。

 田村 決勝戦は勝てない試合ではなかった。優勝できなかったから、残念だというのはない。決勝の前日には「優勝しちゃうとおかしくなっちゃうなぁ」とみんなと話していたぐらい。後で聞くと桐蔭は「明日は絶対勝つぞ!」という感じだったそう。勝利、勝負のこだわりみたいなのは、向こうの方が強かったね。でも自分たちもよく頑張った。今思い出しても、青春ですね。(敬称略)【高橋洋平】

71年夏・田村(磐城)の甲子園登板成績
71年夏・田村(磐城)の甲子園登板成績
小さな大投手、田村隆寿氏
小さな大投手、田村隆寿氏