野球王国といわれる愛媛で、新鋭校がアッと驚く偉業を達成した。04年春、初出場の済美が史上最速となる創部2年でセンバツを制覇した。春夏連覇は逃したが、夏の甲子園も準優勝。その裏には、67歳で亡くなった監督・上甲正典の狂気にも似たチーム作り、そして奇跡を起こすベンチワークがあった。

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 この年のセンバツ決勝は雨の影響で大会史上初のナイター開催だった。済美が愛工大名電を6-5で下し、初出場初優勝を果たした。創部2年のスピード制覇は衝撃的だった。当時のコーチで現在監督を務める中矢太は振り返る。「皆さんはセンセーショナルで、華やかなイメージをもたれたかもしれませんが、とんでもない。あの代は日本一の練習をやったと思う」。中矢は明徳義塾出身。馬淵監督の猛練習に耐えたが「そんな次元ではなかった」と苦笑する。

 女子校だった済美が男女共学になったのは02年。野球部を立ち上げ、指揮官として上甲に白羽の矢が立った。宇和島東でセンバツ初出場初優勝を成し遂げ、平井正史や岩村敬士らをプロに送り込んだ名将だ。指導哲学を表すエピソードがある。専用球場を建設する際、予算の都合で室内練習場かウエートルームのどちらか、選択を迫られた。上甲は即答したという。「ウエートルームがほしい」。1000万円以上を費やし、20台超のトレーニングマシンを備えた。ボディービルダーから体作りの助言も受けた。考え方はシンプル。打撃に関する口癖があった。「バットを割り箸ぐらいの感覚で持てたら、160キロの球が来ても打てる。つまようじの感覚なら、変化球が来ても、さばける」。

 練習時間は長い。その上、効率的だった。02年メンバーで三塁を守った田坂僚馬(現部長)は恩師の言葉を思い出す。「時間との闘いをしなさい。同じ1時間、ティーを打つなら、100本と120本なら、どっちがいい? 1週間で140本。3年間でどれだけの差がある」。猛練習を課すが、根性論ではない。常に数字を用いて、理詰めで選手を教える。そして時折、試す練習法は、ユニークだった。1・5キロのバットを振らせたり、ボールをぬらして、わざと重くしたり。ある投手が指先が滑ると言えば、食器用の洗剤を買ってきた。「これを手につけて、もっと滑るようにして、練習せえ」。塁間のボール回しも利き手に軍手をはめて、投げさせた。投げにくい状況で、いかに正確にスローイングできるか。今も済美に残る練習法だ。

 とはいえ、歴史のない野球部。1期生は2年夏の県大会まで公式戦で1勝もできなかった。転機は夏の終わりの練習試合、明徳義塾戦だった。相手エースの鶴川将吾に打ち勝った。「やってきたことが間違いではないと確信に変わった。自信を持てるきっかけになった」と田坂は言う。2期生に福井優也(広島)が加わり、投手にも柱ができた。ここを起点に、秋の快進撃が始まる。愛媛大会を制し、四国大会も一気に頂点に立った。そして翌春に甲子園へ初めて進む。ダルビッシュ擁する東北との球史に残る激闘が待っていた。(敬称略=つづく)【田口真一郎】

 ◆愛媛の夏甲子園 通算117勝66敗1分け。優勝6回、準V5回。最多出場=松山商26回。

04年4月、初出場初優勝を飾り、マウンドの福井投手(左から2人目)を中心に喜ぶ済美ナイン
04年4月、初出場初優勝を飾り、マウンドの福井投手(左から2人目)を中心に喜ぶ済美ナイン