77年センバツ、銚子商の主将だった斉藤俊之は、父で監督だった一之と「親子鷹」で2度目の甲子園に出場した。その29年後、今度は俊之が父と監督の立場で息子の之将(ゆきのぶ)と「親子鷹」を実現させた。之将は亡き祖父、父と3代の思いを胸に、銚子商のユニホームに袖を通した。

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 中3の夏前、之将は父俊之に進路を相談し、千葉県内の私学を勧められた。監督の俊之は、現役時に「親子鷹」の表と裏を体験。自らの監督の立場も安泰ではなく、簡単に「うちに来い」とは言えなかった。

 だが、運命の糸が2人を結び付けた。05年夏、俊之が就任後初の甲子園に出場。1度は私学を第1志望にした之将は、スタンドから見る銚子商の姿に心を動かされた。「父と一緒にやるのは運命、宿命なのかな」。父と同様、直前で希望進路を変更。06年春、2代目の「親子鷹」が誕生した。

 之将 父の背中をずっと見てきて、憧れはあったんです。でも、元監督の孫、監督の息子と言われ、重圧もすごくて…。でも、甲子園で心は決まった。

 選手時代に「親子鷹」への周囲の厳しさ、重圧を経験した俊之からは、誰よりも厳しく指導された。之将が2年生の6月の合宿、足首がパンパンに腫れながら、練習を継続。さすがに練習後に検査を受け、骨折が判明した。

 俊之 他の選手なら、すぐ病院に行かせましたが、(息子だから)やれるだろう、と。

 怒られる時は「父と子」だった。2年秋の練習試合では1、2戦連続でミスを犯し、ベンチ前で大説教。俊之が、相手校の監督に「すみません。うちの愚息ですから」と説明するほどの迫力だった。俊之の母で之将の祖母の悦子は「教育委員会に言うわよ」と俊之を責めたが、「親子鷹」に甘えは禁物だった。

 3年夏、之将はレギュラーを獲得した。準々決勝の東海大望洋(現東海大市原望洋)戦。0-1の9回2死二、三塁、之将に打席が回った。「代打も考えた」(俊之)が、打席に入る前に話をした時の「やります」と自信に満ちた目に俊之も心を決めた。

 俊之から「3年間をぶつけてこい」と背中を押され、之将は打席に立った。1-1からの3球目、低めのスライダーを打ったが、二ゴロで試合が終了した。

 之将は泣き崩れた。ベンチ裏に引き揚げると、俊之から声を掛けられた。「あの打席は息子ではなく、1人の選手として送ったから」。他の選手に声を掛ける時は泣いた俊之の目に、涙はなかった。周囲の目を意識し、最後まで「親子鷹」を貫いた。

 敗戦直後、俊之は監督解任を覚悟した。「周りは息子だから使ったと見るだろうな…」。自ら身を引くことも考えたが、残った選手の存在が踏みとどまらせた。その一方で、高校卒業後、之将は野球と距離を置いた。あの日の凡退が、野球への思いをプツッと消し去った。

 俊之は新チームの指導を続け、1年後の09年夏に成績不振で辞任した。野球と距離を置いた之将は、父の辞任から約半年後に「あのままで終わりたくない」と情熱が復活。大学2年からは教職の授業を受講し、教員を志した。

 大学卒業後、中学校の教員を務め、現在は銚子市立銚子中で野球部の監督を務める。前任校の旭市立第二中では教え子を1人、銚子商に送った。中学、高校の免許を持つだけに、将来的に銚子商の指導に携わるのが夢なのだろうか。

 之将 比べられますし、苦労も知ってるので簡単には言えないです。今の夢は中学校の教員として、甲子園やプロで活躍するような選手を育てることです。

 取材中、之将は俊之を「監督さん」と呼び、足は正座だった。「あの時から、父は監督です。監督と選手の関係じゃなくなることは、想像できません」と苦笑した。かつて、俊之は中学生の息子を持つ他校の監督から進路を相談された。「絶対に一緒にやるべきです」。選手、監督の立場で「親子鷹」を経験した俊之は断言した。(敬称略)

【久保賢吾】

08年7月、勝浦若潮戦後、斉藤俊之監督(右)と之将右翼手
08年7月、勝浦若潮戦後、斉藤俊之監督(右)と之将右翼手