「世紀の誤審」と呼ばれた写真が、千葉・成田高の校史資料室に眠っている。アウトと判定された本塁クロスプレーが、写真ではセーフに見える。実際はセーフだったのか。72年前の秘話を探りに成田を訪ねた。

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 問題の場面は、夏の選手権大会が戦後に復活した1946年(昭21)の開幕戦、京都二中-成田中戦(西宮)で起こった。成田中は6回裏、2死二塁から5番石原利男が中前打。二塁走者の石原照夫が頭から本塁へ滑り込み、先制点かと思われた。判定はアウト。戦後初得点は幻となり、9回に1点を失った成田中は0-1で敗れた。

 当時の朝日新聞にプレーの写真はない。テレビ中継もない時代に、後から判定を巡る議論が起きた。成田中が汽車で千葉へ帰る際、停車した京都駅でアマチュア写真家がクロスプレーの写真を譲ってくれたという。セーフに見える写真だったから「誤審」の言葉がついて回った。伝説の写真は今も校史資料室に保管されている。縦57センチ、横70センチ。日刊スポーツを広げたほどの大きさだ。

 成田中のエース石原照はのちにプロ野球の東映でプレーし、ロッテ球団代表を務めた(06年死去)。踏ん張ってゼロ行進を続けていただけに、試合はどう転んだかわからない。勝った京都二中はこの大会で準優勝しており(優勝は浪華商)、結果的に優勝争いを左右した誤審として伝わるようになった。

 当時を知る人は限られている。この場面で中前打を放った石原利が成田市に住んでいた。86歳の今も記憶は鮮明だ。

 石原利 ヒットを打って一塁ベースを回る時、ホームの方をこの目で見たんだ。タイミングはセーフ。間違いない。保証する!

 それでも成田中側はアピールの動きを見せない。実は成田中・浅井礼三監督は早大OB。アウトの判定を下した村井竹之助球審も早大OBで、浅井より6年上の先輩にあたる。大先輩の判定には逆らえない。

 石原利 浅井さんは後で言っていた。村井さんに抗議は申し込めない、とね。それと、うがったことを言うようだけど、この大会は浪華商と京都二中が大本命だった。京都二中が無名の成田中にいきなり負けては、盛り上がらなくなる。球場全体がそういう雰囲気に包まれていたんですよ。

 さまざまな臆測を呼びながらも、チームの間で判定をいつまでも話題にすることはなかった。ただ、石原利には長年、心に引っ掛かることがあった。

 石原利 テルさん(石原照)がね、その後にセーフだと言ったことが1度もなかったんですよ。確信があれば何か言うでしょう。

 もしかすると捕手にブロックされ、手がベースに届いていなかったのか。ボールを持たない捕手が走路をふさいでも、走塁妨害を厳密に適用しない時代だ。いずれにせよ真相は闇の中と言うほかはない。

 成田中は幻の1点に泣いたまま終わらなかった。1点の重みを知る石原利たち下級生は、翌47年も全国大会に出場。もう無得点で敗れるようなチームではなかった。初戦の県松本中戦に10-0で学校初勝利。準決勝では福嶋一雄投手の小倉中に延長戦で敗れたが、南関東勢で初の4強入り。大躍進を遂げた。(敬称略)【織田健途】

写真は縦57センチ、横70センチ。手にするのは成田高・梁川啓介野球部長
写真は縦57センチ、横70センチ。手にするのは成田高・梁川啓介野球部長
「タイミングはセーフだった」と話す石原利男さん
「タイミングはセーフだった」と話す石原利男さん