「一球入魂」。この言葉を生んだ「学生野球の父」飛田穂洲(とびた・すいしゅう)の母校、水戸一(茨城)。旧制水戸中時代に2度、水戸一で1度夏の甲子園に出場したが、54年(昭29)以降、道は閉ざされている。その生誕地に先人の素顔を求め、「父」の教えを悲願につなげるべく挑戦する後進たちの今を見た。

    ◇    ◇    

 水戸一のグラウンドを見下ろす急坂の上に、67年建立の穂洲の胸像はある。11年3月11日、強い揺れに青銅色の像はグルッと向きを変えた。その4月同校に赴任した現監督、竹内達郎(44)は苦笑する。「“竹内が来る”と横向かれた」。

 嫌われる? 素地はあった。筑波大院生時の修士論文のテーマが「高校野球の特異性に関わる研究」。穂洲を始めとする精神野球に違和感を投げかけた。出身の常総学院で接した「木内マジック」にも力を得た。「野球人口の減少も根性とか精神が前面に出た教えが原因、と。ただ指導者になってみると『一球入魂』は精神主義じゃない。『野球は楽しい』の穂洲のメッセージと思える。今風にアレンジして守りたい」。

 今も、水戸の人たちの穂洲への思慕の念は、あせない。水戸一ナインは登校時、必ず胸像に一礼。野球部員2人が像を布で磨き、ほうきをかける。主将の鈴木健拓(3年)は言う。「飛田先生の母校で野球をやるのが目標でした。1日1球をむだにせず競争意識を高めたい」。

 穂洲の生誕地を訪ねた。晩年先人が住んだ跡地には「一球入魂」の石碑。ほど近い生家では穂洲を大叔父と仰ぐ飛田忠徳(80)、恵子(72)兄妹と忠徳の長男、憲生(50)が思い出を語る。

 ゆっくりと、忠徳は目を閉じながら「野球と狩りが好きでな。散弾銃でカモ撃ちにいくと『あれは親鳥だから撃っちゃいかん。子ガモがいたらかわいそうだ』なんてな」。恵子は抜け目なく「『おじさん、(監督を務めた)ワセダの調子いいですね』って言うと笑顔でクッキーをくれた」。忠徳はまた曽祖母から聞いた話を、うなずきながら-。「穂洲が小学3年か4年の頃、弓の大会があってな。10間(約18メートル)の距離から1寸(約3センチ)の金的を射て、それを矢に刺したまま自慢げに帰ってきた…。その頃から野球のうまさに通じるものがあったんだな」。

 好々爺(や)の一面を知れば、野球でみせる厳しさは別人に映る。「練習でこそ最善を尽くせ!」を標榜(ひょうぼう)し、早大監督時代の虐待的「千本ノック」は水戸でもつとに知られ、たまに穂洲が母校に立ち寄ると聞くと、後輩は恐れた。50年6月、当時63歳の穂洲からノックを受けたのが、水戸一の遊撃手だった小田部龍雄(86)。「正直、びびった。ノックは気合が伝わらなければ打っても仕方ないと、1球ずつこちらの捕球の体勢ができるまで待って丁寧に打った。それが一番しびれたな。そんな指導者に会ったことなかった」。師への畏敬と回想に声は震えた。

 水戸一野球部の部史「熱球一二〇年水戸中学・水戸一高野球部の軌跡」。その中にOBの鼎談(ていだん)で穂洲に千本ノックの意味を質問した一節がある。「選手がふらふらでノックしても意味がないのでは?」。穂洲はこう答えている。「それは違う。人間は苦しくなればなるほどラクな姿勢をとろうとする。つまり苦しい中で一番ラクな姿勢をとらせるためのノックなのだ-」。

 ところで「動く胸像」には、種明かしがある。「中の芯棒が、揺れてる間に回った。空洞だったら倒れてた」と竹内は言う。野球の情熱と師弟愛を貫く穂洲の堅牢(けんろう)さは、ここでも顕著だ。(敬称略)【玉置肇】

 ◆飛田穂洲(とびた・すいしゅう)1886年(明19)12月1日、茨城県大場村(現水戸市)生まれ。本名は忠順(ただより)。旧制水戸中(現水戸一)、早大で内野手。早大初代監督を経て朝日新聞社入り。高校、大学野球の評論記事を執筆。学生野球の発展に尽力し61年(昭36)野球殿堂入り。65年、78歳で死去。

 ◆茨城の夏甲子園 通算53勝62敗。優勝2回、準V1回。最多出場=常総学院16回。

飛田穂洲生誕地にある「一球入魂」の碑
飛田穂洲生誕地にある「一球入魂」の碑