99年夏、桐生第一が群馬県勢初優勝に輝いた。エース正田樹(3年)を中心とした守りの野球で悲願を達成。桐生市から初優勝校が生まれた背景には深~い理由があった!?

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 エース正田がマウンド上で左こぶしを突き上げると、瞬く間に歓喜の輪が広がった。99年夏。群馬県勢が悲願の頂点に立った瞬間だった。監督の福田治男(56)は「実感が湧かなかった。優勝インタビューも雲の上にいるようだった」と振り返った。

 身上の守りの野球を貫いた。正田の熱投を鍛え抜かれた守備力が支えた。6試合で5完投、3完封、防御率0・85点。失策はわずか2個だった。3回戦の静岡(8月18日)から決勝の岡山理大付(同21日)まで4日連続で完投した。福田は「決勝戦の先発投手は、メンバー交換直前まで悩んだ」と明かす。ウオーミングアップの様子と、正田の「行きます」という言葉に後押しされた。

 優勝から一夜明けた同22日。優勝旗を持ち帰ったナインを桐生駅で約8000人の市民が出迎えた。福田は「周囲の見方が変わった。キリタカ(桐生高)がつくった球都桐生で、認められた気がした」と率直な感想を口にした。

 古くから絹織物の町として栄えた桐生市は、「球都」とも称され、戦前から群馬球界をリードしてきた。旧制中時代を含む2度の選抜準優勝を誇る桐生高は、伝説の指導者・稲川東一郎が自宅に「稲川道場」を作り、選手を住まわせて鍛え上げた。

 桐生出身の福田は、高校は隣県埼玉の上尾高に進んだ。名将・野本喜一郎に誘われ、その下で甲子園を目指そうと思ったからだ。「あのころは『裏切り者』のような言い方もされた」と言う。しかし、桐生の糸は途切れていなかった。在学当時は知らなかったが、後に野本から「実は稲川さんにすべて教えてもらったんだ。だから桐生の子は面倒みるよ」と聞かされた。プロ野球西鉄などに在籍した野本が、高校の指導者に就任した時、稲川に教えを請うていたという。

 福田は「つながっている気がする」としみじみ語った。稲川が築いた地で、稲川を尊敬する野本の教え子の福田が、稲川が果たせなかった優勝を成し遂げた。「稲川さんあっての桐生の野球。先代の功績は追い越せない」とたたえた。

 桐生第一の優勝を機に、群馬の高校球界は活況となった。13年夏に前橋育英が初出場で優勝し、高崎健康福祉大高崎は11年夏に初出場してから春夏合わせて6度出場。甲子園での勝率も11年夏以降は、それまでの45%から61%に上がった。福田は「今、群馬のレベルは上がりました。でも、もう1回優勝したいね」と言った。桐生プライドを懸けた挑戦は続く。(敬称略)【鳥谷越直子】

 ◆群馬の夏甲子園 通算69勝68敗。優勝2回、準V0回。最多出場=桐生14回。

桐生第一の福田監督は99年夏に日本一になった時の記念絵皿を手に笑顔
桐生第一の福田監督は99年夏に日本一になった時の記念絵皿を手に笑顔