30年前の1988年(昭63)夏。第70回記念大会の甲子園には、埼玉発「さわやか旋風」が吹いた。初出場で4強に進出した浦和市立(現市浦和)。平均身長171センチ、県大会のチーム打率2割5分4厘はともに出場49校中最低。“フツーの高校生たち”が起こした快進撃を、3回連載でお届けします。

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 今年3月中旬、さいたま市内の居酒屋に、88年夏の埼玉大会を戦った元球児たちが、旧交を温めた。高校のOBチームで甲子園を目指す「マスターズ甲子園」が縁で結成された「埼玉県高校野球45年会」の面々は、集まると話はいつも30年前のことになる。

 「そもそも市高(しこう)が優勝するとは…。市高といえばサッカーでしょ」

 「俺たち、練習試合で市高に負けたことなかった」

 他校OBの“恨み節”に、控え捕手だった斉藤雄一郎は悪気なく言う。「そうだよね。だって、自分たちが一番驚いていたから」。

 浦和市立は、当時から大学の現役合格率が70%を超える県内有数の進学校。サッカー部は全国大会で、選手権4回をはじめ優勝8回を誇る名門だが、野球部はそれまでの最高成績が県16強と“フツー”の学校だった。集まった選手も、誰ひとり、甲子園を目指して入部したわけではなかった。エース星野豊は「学力が相応で、中学の先輩がいたから」。甲子園で打率5割の3番打者・阿久津和彦も「中学時代は陸上部もやっていて、陸上があるなら野球部もあると思って入った」。主将の■手(そうて)克尚は「みんな制服のセーラー服目当てだったよな?」と笑う。当時36歳で今は66歳になった監督の中村三四の目にも、入学当時の彼らは「まあまあ、うまいかな」くらいにしか映らなかった。

 88年春の大会は地区予選で与野に3-11と大敗を喫して県大会に進めず、夏はノーシードからの戦い。奇跡の始まりは、初戦(2回戦)第7シードの所沢北戦だった。エース星野が、外角、内角の低めを丁寧に突く投球で1失点完投。相手守備の乱れから勝ち越し点を奪い、3-1で初戦を突破した。当たって砕けろで初戦に全てを懸けていたナインは、まるで優勝したかのように喜んだ。

 星野は春まで、130キロ台を常にマークするほど球は速かったが、コントロールがめっぽう悪い投手だった。春の大敗以来、ブルペンではホームベースの両脇に竹串を差して打者の膝の高さにゴムを張り、その下への投球を繰り返した。さらに星野は直球がナチュラルにシュートするクセ球の持ち主。中村は自ら防具を着けて打席に立って、内角への制球を徹底的に磨いた。カーブとスライダーも交えた左右に揺さぶる投球でゴロの山を築く投球術は、全国の強打者も手を焼き、快進撃を支えていくことになる。中村は「初戦の星野の投球がみんなに勇気と自信を持たせてくれた」。

 勢いに乗ったチームは、星野の好投に、低打率ながらワンチャンスをモノにする打線で、あれよあれよと埼玉大会を勝ち進んだ。準決勝と決勝の舞台は西武球場(現メットライフドーム)。試合前、球場で練習していた西武の2軍選手に目を奪われ「サインが欲しいなあ」と口をそろえるほど、まだ甲子園は現実の世界ではなかった。高校通算56本塁打のスラッガー山口幸司(元中日)を擁し、春の関東大会を制した大宮東が優勝の大本命。前年の秋季大会でコールド負けを喫し「決勝に来ていたら勝てなかった」(星野)と思っていた強敵が、トーナメントの反対側の準決勝で市川口に敗れる運も味方し、160校の頂点に立った。

 優勝が決まり、学校の電話が休みなく鳴った。だが、祝福の声にとどまらず「お前らが甲子園に行ったところで勝てっこない」「恥をかかせるなよ」と批判の声が相次いだ。(敬称略=つづく)【大友陽平】

※■はクサカンムリに隻

30年前の思い出を語り合った浦和市立のOB、OGの面々
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