沖縄の高校野球には、冬の風物詩がある。「野球部対抗競技大会」が毎年1月に開催され、今年で46回を数えた。簡単に言えば、県内の野球部員による大運動会。全国に先駆けて行われた、この行事が、野球後進県と呼ばれた沖縄の競技力を向上させた。なぜ実施に至ったのか? はるかなる甲子園への思いがあった。

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 今年の第46回大会には、沖縄県内の62校が参加した。8種目の合計点数で争われる。【1500メートル走】【100メートル走】【立ち3段跳び】【遠投】【打撃】【塁間走】【塁間継投】【1800メートルリレー】。走力、跳躍系に加え、野球の技術をはかる種目があるのが特色だ。打撃とは、スタンドティーにボールを置き、ロングティーで飛距離を競う。塁間走はベースランニング。学校対抗は主に9人の平均値で得点をつける。塁間継投は4人1組のボール回しだ。送球がそれると、減点になる。大会最後の種目であるリレーは9人が200メートルでバトンをつなぐ。選手や保護者らが盛り上がるハイライトシーンだ。後日、個人成績と学校別の順位が公表され、それぞれの立ち位置が分かる。

 第1回大会は73年に開催された。折しも、沖縄の本土復帰の翌年。発足に際し、安里嗣則、栽弘義が県高野連理事長に呼ばれた。「高校野球のシーズンオフは長い。何か強化策があるだろう。2人で考えてごらん」。安里は日体大、栽は中京大を卒業。当時は30代半ばで、本土の野球を知る指導者として、周囲から期待されていた。米国統治下の68年に興南が夏の甲子園で4強入りしたが、まだまだ全国の舞台では格下扱い。対外試合禁止期間の冬に、強化できないか。沖縄は年中、温暖だ。安里らは知恵を絞り、競技会を発案した。当初は「そんな運動会みたいなことはやる必要ない」と反対意見もあったという。初回は12、13校がエントリーしたが、雨が降ったため、帰った学校もあった。数チームだけで行った。だから第1回大会の優勝校はない。

 粘り強く大会を続け、加盟校に認知されていく。運営も試行錯誤で完成度を上げ、数年後には現在の形になった。競技大会の効果は出た。100メートル走は速いが、塁間走が遅い選手がいた。発足当初の沖縄はベースランニングがそれほど重要視されていなかった。そこから塁間走にも力が入った。監督の認識よりも遠投力があり、ポジションのコンバートに成功した例もある。数値化したことで、選手や指導者の現状認識が容易になった。今ではプロ球団のスカウトや他県の高野連関係者も大会を視察する。しかし全国には広がらない。「(他県は)ライバル校にデータが流れることを嫌がる。練習試合も隣県でできる。でも、我々は飛行機に乗って、練習試合には簡単には行けない。みんなで、切磋琢磨(せっさたくま)してやる」と安里は言う。競技大会の他にも1年生大会を開催したのは、沖縄が初だ。

 「オール沖縄」の取り組みは確実にレベルアップにつながった。監督、栽が率いる沖縄水産が90年から2年連続で夏の甲子園決勝進出。そして99年には沖縄尚学がセンバツで県勢初優勝を飾った。当時の県高野連理事長だった安里は甲子園のアルプススタンドで歓喜の瞬間に立ち会った。「今は禁止になったが、甲子園で初めてウエーブが起きた。泣いた」。沖縄にとって、はるか遠くにあった聖地が近くに感じられた瞬間でもあった。(敬称略)【田口真一郎】