鹿児島実を率いた久保克之と鹿児島商工(現樟南)を率いた枦(はぜ)山智博。強烈なライバル関係だった2人だが、ユニホームを脱げば、ともに相手をリスペクトする仲でもあった。

 久保が鹿児島実の監督を勇退した02年秋、監督引退慰労会が鹿児島市内のホテルで行われた。その席上、久保は言った。「甲子園での全国制覇、次は枦山さんにやってもらおうと思います」。自身、96年のセンバツでは優勝した。しかし夏の優勝はない。

 久保 やっぱり高校野球は夏です。夏に勝たないといけない。鹿児島のために、枦山さんに深紅の大優勝旗を鹿児島に持って帰ってきてほしいと思っていました。

 託された枦山も身が引き締まったという。03年以降、樟南を率いて3度夏の甲子園に出場したが8強にも進めなかった。03年の夏の県大会直前に交通事故にあい頭部を45針縫う重傷を負った。しかし、その年の夏はユニホームを着て指揮を執った。

 枦山 久保さんからは、これまでは(久保と枦山の)2枚岩だったが、これからは枦山くんの1枚岩で盛り上げていってほしい、と言われた。うれしかったし、何とか応えようとしたんですが…。久保さんは目標でもあり、スキのない人。今でもかなわないのかなと。

 2人は実は共通点がある。ともに恩師と呼べる人に頼まれて「しぶしぶ」監督となった。それまでは社会人だった。ともに高校時代は甲子園出場経験もなく、母校を率いて黄金時代を築いた。投手出身の枦山と野手出身の久保ということもあるのか野球の質こそ違いはあるが、似ていることも多い。そして、何よりこれからの鹿児島高校野球をさらにリードしていく思いについてはまだまだ衰えていないのも同じだ。

 久保は鹿児島実の名誉監督として野球部に関わっている。礼儀を重んじ、80歳になった今でも学校の玄関口にある創設者の銅像に向かって一礼、大きな声であいさつして登校している。

 久保 野球を通じて人間を磨いてほしい。社会人になって恥ずかしくない人材になってほしい。

 枦山は10年夏をもって樟南の監督を退任。現在は鹿児島城西のコーチを務めている。

 枦山 最近は、あいさつひとつできない人が多い。監督の世代もそうだし、選手らもそう。私と久保さんがやっていた時代は、そんなことは絶対なかった。社会人としての教育は基本中の基本だったから。

 鹿児島実野球部は創部100周年を迎えた。記念行事の開催に追われた久保だが、久しぶりに見る懐かしい顔に感激するとともにこれからの新しい歴史に期待をかけている。枦山も久保との約束は忘れていない。

 枦山 まだまだ、頑張りますよ。全国優勝監督、まだ果たせてませんからね。

 多くのプロ野球選手を輩出した2人の名将は、今年夏の前哨戦となる5月のNHK旗で大会の始球式を務めた。互いにユニホーム姿で、マウンドに枦山、打席に久保が立った。久保は「私が投手ライナー打つからなと言ったら、枦山さんも、体にぶつけるからな、と言ってたんですけど」と言いながらも、結果は見事なストライクで空振り。2人の「口撃」はまだまだ健在で、鹿児島県の発展のために力を注ぐ姿勢も変わらない。(敬称略=おわり)【浦田由紀夫】


05年8月、投手の調整をマウンドから見守る樟南・枦山監督
05年8月、投手の調整をマウンドから見守る樟南・枦山監督