「負ければ終わり」の状況が見る者の心を打つ夏の大会。しかし、負けたのに頂点に上り詰めた例が1つだけある。1917年(大6)に鳴尾球場で行われた第3回大会。愛知一中(現旭丘)は1回戦で長野師範に敗れたが、敗者復活の抽選に当たると、そのまま勝ち進み、優勝した。

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 関西学院との決勝は再試合になった。愛知一中の応援席ではメガホンがわりに約100個の細い青竹が用意された。ほら貝のような音が球場を包む中、延長14回、1-0の接戦を制した。一方で、釈然としない観客や関係者が多数いたとも伝えられている。

 愛知一中は1度負けていたからだ。なぜ敗者復活制度があったのか。採用された第2、3回大会の出場校は12。半端が出るためだ。第3回大会は1回戦で敗れた6チームから4校がくじで敗者復活戦へ。勝った2チームが準々決勝から再びトーナメントに加わった。

 勝ち進んだ決勝戦でも運に恵まれた。1点をリードされた直後に大雨。あと1死でコールド試合が成立するところで再試合の裁定が下った。「2度負けた」と言われる理由だ。再試合を含め6試合を1人で投げ抜いた、エースで主将の長谷川武治は「当時の審判官は和服、袴(はかま)のいでたちだったので、この雨では試合続行できなかったのである」と野球部史の中で回想している。

 前回大会から始まった敗者復活制度は当然のように、この第3回大会限りで撤廃された。優勝にケチがつく格好になった愛知一中だが、第1回大会から皆勤を続ける15校の1つ。当時の野球界で特別な存在だったことは揺るがぬ事実だ。

 同校の野球部史は昭和36年に発行された。「学生野球の父」飛田穂洲が寄せた序文は「この頃やたらに名門という言葉が使われる」で始まり、「本当の名門」として愛知一中、和歌山中、盛岡中、水戸中、高松中、神戸一中、郁文館、青山明治両学院、慶応普通部くらい…と列挙している。

 初期に活躍した愛知一中は、日本の野球を発展させる礎の1つになっていた。明治38年に編さんされた教本「野球便用」が象徴的だ。メンバーの決め方、攻撃の手順、魔球(変化球)への対応など現代にも通じる内容が約180ページにもおよんで事細かに記されている。

 野球部OB会の理事長、和泉喜久磨を愛知県内に訪ねた。「これがあったから勝てたのだと思う」。古びた冊子を大事そうにさすった。この1冊以外に現存を確認できていないという。今の旭丘野球部員たちが目にする機会はほぼない。

 「真面目に野球と向き合っている。野球とは、3人がアウトになるうちに何人の走者をホームにかえすかを競うゲーム。そういうことが書かれてあります。今の子たちに言いたいのは、頭のエラーだけはするなということ。負けてもいいから、きちんとした野球をやってほしいんです」

 野球便用の「総論の部」ではまず先に、野球とは、と説いている。

 野球ノ目的ハ、身体ノ強健、発達ヲ主旨トス。之ニヨリテ精神ヲ緻密機敏ニシ、勇気、忍耐、不屈及ビ共同一致の精神ヲ修養シ、世ニ処シテ事ヲ決行スルトキノ準備トナスモノナリ。

 「野球で心身を鍛え、世に出て活躍するための準備とせよ」というところか。和泉理事長は、現代語訳して、もう1度「野球便用」の精神を部に注入しようと構想している。

 伝説の優勝から101年がたった。愛知一中のリードによって、愛知は大阪に次ぐ春夏18度の甲子園優勝を誇る野球大国になった。旭丘は県内有数の進学校。グラウンドも狭く、有望な部員も集まりにくい。甲子園への道のりは険しい。ただ近年、OBを中心に野球部の再興に力を入れ始めた。後輩たちは当時と変わらぬ白に黒いラインが入った帽子と、金の鯱(シャチ)をあしらった校章を胸にまとった古風なユニホームで戦い続けている。(敬称略)

【柏原誠】

 ◆愛知の夏甲子園 通算129勝88敗。優勝8回、準V1回。最多出場=中京大中京28回。