1966年(昭41)、大阪大会の準決勝で快速左腕・江夏豊を擁する大院大高は公立校・桜塚に0-1で惜敗した。決勝点は3回に出た内野手の3失策によるものだった。もう1歩のところまでに迫った甲子園にわずかに届かなかった。自身が打ち込まれたわけでもない。しかし江夏は今はもちろん、その頃も不満を示すことはなかったという。

 江夏 ウチも桜塚の奥田(敏輝)を打てなかった。1回裏1死一、三塁。ここで4番打者のオレが二ゴロ併殺に倒れた。チャンスらしいチャンスはここだけだったな。それに野球にエラーはつきものだしな。そういう考えは、もう頭に染み込んでいた。だからプロ野球の世界に入った後も野手のエラーにそんなに怒った記憶はないんや。

 大院大高3年になったころ江夏の名前は高校球界にとどろいていた。「学院に江夏あり」。そう言われた。向かうところ敵なしの状況に慢心も生まれていった。味方が失策すると滑り止めのロジンバッグをマウンドにたたきつけ、けっ飛ばしたりもしたという。

 江夏 3年になったころかな。試合中にエラーが出て、そういう感じになっていたら塩釜監督が飛んできて、はり倒された。そして試合の後に懇々と諭されたわ。野球にエラーはつきもの。それにロジンは自分の味方なんやぞ。グラブとロジンは投手にとって最後の味方なんや、ということだったな。そのことをしっかり染み込まされた。だからオレは野手のエラーに怒ったことはないと思うよ。

 多くの人たちの力があっての野球人生だと、江夏は振り返る。慕った大院大高監督の塩釜強も、その1人だ。塩釜は野球の技術論はほとんど教えなかったが、野球に対する考え方をしつこく指導した。失策に不満顔を示した江夏を叱責(しっせき)し、指導したのも塩釜だった。

 江夏 このトシになるまでオレは好き放題に生きてきたよ。バカな失敗もやらかしたしな。でも本当にいい人たちに恵まれたと思う。人との出会いがよかったんだな。

 夢を砕かれ、のちに阪神で同僚になった奥田、高校の練習試合で打ちのめされた兵庫・育英の同じ左腕だった鈴木啓示もライバル視した。プロに入ってからは同じ背番号「28」を背負っていた衣笠祥雄も意識していた。

 江夏 鈴木には高校時代、てんぐの鼻を折られたからな。サチ(衣笠)は高校時代から知ってたよ。「平安の衣笠」は有名だ。あとになって広島でいっしょに戦ったんだけどな。そんな連中と、のちになって親友といえる存在になるんだからな。

 そんな人々とのめぐり合いも野球をやっていればこそだ。その原点は江夏本人も強調するように高校野球にあった。大院大高での3年間は江夏豊という男の基礎をつくった。そして失策で甲子園を逃した桜塚との試合も忘れることはない思い出だ。

 江夏 高校野球、プロ野球、それにメジャーリーグとそれぞれ技術の次元は違うだろう。でもな、1つのボールを追いかける思い、情熱はみんな同じなんだ。だから高校野球はいいんだ。

 今年も夏の大会がやってくる。江夏は自宅のテレビの前で、痛む膝をかばい、少しだけ申し訳ない気持ちになりながら球児たちの行進を見守る。(敬称略=おわり)【高原寿夫】