語り継がれる本塁打がある。1977年の第59回大会3回戦・津久見(大分)戦で、大鉄(現阪南大高=大阪)川端正外野手(当時3年)が右翼へ放ったサヨナラ満塁本塁打だ。昨夏まで99回を数える全国高校野球選手権大会での本塁打数は1597本。その中で川端以外打った選手がいない劇弾。勝負球はカーブと読みきり、満塁機を実らせた。信頼に応え、支援に報いる思いがそこにあった。

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 もしも願いがかなうなら、41年前の夏に時を戻したい。川端しか知らない瞬間を、本人は思い出せない。

 川端 試合のビデオを見たら、自分が打った方向を見てるんですけど、そのへんから記憶がとんでるんですよ。ベースを回るときの記憶がないんです。

 6-6の延長11回1死満塁。そこまで直球を捉えて4安打の川端は、初球からカーブが続いたのを見て勝負球はカーブと読んだ。

 川端 ストライク、ボール、ボールでファウル打ってカウント2-2。その時点で、もうほぼカーブと頭にありました。5球目、カーブが来た! よっしゃあ! っていうのがないんです。自分が振ったんか振ってないのかもわからない。神様が当ててくれたんと違いますか、ほんまに。

 今も思い出せる光景は、別にある。次打者席から見ていた仲間の動きだ。

 川端 セカンドランナーのキャプテンの井脇が、三塁コーチに向かって僕の方を指さしたんです。僕の勝手な想像ですが「次はあいつやから無理して(走者を)回すなよ」と言うてるんかなあと思いながら、じっと見ていたんです。勝敗のかかった打席では、結構打っていたんです。

 サヨナラ機で、仲間が信じてくれている。応えないわけにはいかなかった。

 興国、北陽、PL学園、明星など「私学7強」が大阪の高校野球をリードしていた時代。書店で各校の入試用問題集を見比べ、自身の学力と照らし合わせて大鉄に決めた。のちのエース前田友行(元阪神)ら中学時代から有名だった同学年メンバーが入学直後から上級生と練習する中、川端は学校を囲む水田に陣取り、校外に飛び出す打球を拾った。

 ただ週末の午後は、分け隔てなく部員全員が打撃練習。そこで監督の網智に認められ、試合に出る機会もつかんだ。だれにも負けてはいないと確信できるほどバットも振り、2年秋にレギュラーになった。技術、勝負強さの集大成が、満塁弾だった。

 川端 やろうと思って努力したらできる、と思えたホームランでした。

 人生を切り開いた1発は、母益美への恩返しでもあった。川端は小学3年で父を亡くした。働き盛りの父は、家族の前で心筋梗塞で倒れ、救急搬送先で息を引き取った。それから母が一家3人の生活を支えた。

 川端 おやじが亡くなってるから、大変やったと思うんです。私学の大鉄によう行かせてくれた。だから打席に立っても、あがるとかここで打てんかったらどないしようなんて思う暇もなかった。ここで打つんや、何のために大鉄に来たんや、こんなとこであがっててどないするんやって。打つしかなかったんですよ。

 川端の活躍を知った熊谷組の会長に見込まれ、入社。社会人野球を4年やり、33歳まで同社で勤め、大阪に戻った。今は2つ上の兄との会社経営のかたわら、私学7強の元メンバーで結成した「EVISUボアーズ」で野球も続ける。

 家族を思い、あの夏、好機をものにした。「ちょっとは恩返しできたかな。親孝行できたかな」とたどる記憶の先に、今は亡き母の笑顔がある。満塁弾が1面を飾り、アルプスで喜ぶ自身の小さな記事も載った新聞は、母の宝物だった。(敬称略)【堀まどか】