明石中(現明石)は、1933年(昭8)に中京商(現中京大中京)と球史に残る延長25回の熱戦を演じたことで知られる。エース楠本保は、32年のセンバツ、選手権で快投を演じた。選手権は準決勝の松山商戦で17三振を奪いながら3失点して敗れたが、計36回を被安打10、実に64個の三振を奪う投球で「世紀の剛球投手」といわれた。センバツでも準優勝し、春夏合計で113奪三振という記録を作った伝説の剛腕だ。

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 明石の野球部グラウンドのバックネット裏には「善闘記念碑」がある。延長25回の健闘をたたえて建立されたもので、現役選手たちは練習開始前に碑の前に立ち、あいさつするのが日課だ。時代の流れで、記念碑のいわれを知らない選手も多いが、主将の谷川大将外野手(3年)は地元出身で、明石に進学が決まったとき父親から延長25回の激闘について聞かされたという。「(楠本らは)僕らからしたら神様みたいな存在です。誇りに思いますし、尊敬しています。歴史の長さや重みを感じます」。

 33年春のセンバツで準優勝した明石中は、同年の選手権にも連続出場。準決勝で、大会2連覇中の中京商と対決する。この試合、体調不良(かっけ)で楠本は投げなかった。左腕の中田武雄が先発し、9回無死満塁のピンチをしのぐなど、延長戦を含め1人で投げきった。楠本は「3番右翼」で先発したが、9打数無安打に終わっている。4時間55分の死闘は、延長25回裏無死満塁、中京商が相手ミスで決勝点を挙げ、サヨナラ勝ちして決着した。

 このとき、決勝点を与える送球ミスをしたのが二塁手の嘉藤栄吉(08年死去)だ。嘉藤の長男弘之(73)によると、栄吉は生前、楠本について「体が大きく、威風堂々としていて、怖いくらいだった」と語っていたという。チームでもひときわ目立つ巨体だったようだ。上体を大きくひねる元メジャーリーガーの野茂英雄のような“トルネード投法”で、ダイナミックなフォームから剛速球を繰り出した。対戦相手は、楠本対策に1メートル前から投手に投げさせ、打撃練習をしていたというほど難攻不落の球威を誇った。

 楠本は慶大に進学後は野手に転向、卒業後も社会人野球チームで野球を続けたが、42年に召集され中国戦線へ出征、翌43年7月に戦死した。また、中田も戦地で若い命を散らしている。

 「精神力の一番弱いところに球が来たんだ」と、自らのミスをその後の人生の糧にした嘉藤は戦後、地元の内外ゴムに就職し、準硬式球(トップボール)の開発に携わり、野球の発展に貢献した。

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 昨年、明石の監督に就任した高石耕平(37)は、激闘を繰り広げたライバル・中京大中京のOBだ。87年以降、明石は甲子園出場がない。「なんとか甲子園に出て、そのとき中京大中京も出ていたら盛り上がるでしょうね」と、古豪復活を目指してノックバットを振っている。同校野球部OB会長の吉川一幸(70)は「新しい伝統を作ってほしい」と話す。伝説の試合と、伝説の選手たちを超えるような新たな物語を、後輩たちに期待している。(敬称略)

【高垣誠】

 ◆兵庫の夏甲子園 通算135勝92敗。優勝7回、準V3回。最多出場=報徳学園14回。