プロ野球選手から新聞記者に転身した。某紙の運動部に配属。大阪支社に勤務してプロ野球を中心に取材することになった。ある年のこと。はっきりした記憶は定かではない。確か、1970年代だったと思う。ゲーム後である。球場の選手役員入り口の近くに、某宅配便のトラックが停まった。当時にしては珍しい光景。何事かを確認しようとしていると、選手がスーツケースを転がしてきてトラックの荷台に積み込んだ。1人ではない。選手が次から次へと荷物を運んでくる。「あっ、そうか」思い出した。チラッと噂を聞いていた。プロ野球界、ユニホーム、バット等試合に必要な用具を荷物車で次のゲーム開催地まで運搬するようになったのだ。

 自分が阪神タイガースへ入団した年が甦ってきた。当時(昔)と現代(今)えらい違いですね。あの頃(昔)の移動、実にシンドかった。荷物は自分で運ぶのが当たり前である。球団からの支給は大きな革のボストンバッグだったが、その中にはユニホーム類一式にグラブ、スパイクとシューズ。アンダーシャツにソックスとスライディングパンツ。我々選手はグラウンドコートを含め、アンダーシャツは常に10枚前後詰め込んで持参していた。もちろん、普段着や下着類の着替えもいる。もう、バッグはパンパン。荷物の多いこと、重たいこと。そこへ一番若いピッチャーが遠征時に担当していたのが練習ボールと、ピッチング練習で使用する真っさらのボールの持ち運び。たまらなく重たかったことが脳裏にこびりついているだけに、トラックでの運搬はまるで夢みたい。我々の年代には羨ましい限り。この世界進化している。いまや、荷物車は完全に定着している。

 なのに当時のピッチャー。コーチからは「利き腕で重たい物を持つな。子供も抱くな」のお達しがあった時代。ボストンバッグとボール。かなりの重量だ。この荷物、両手を使わずして持てるはずがない。お達しと荷物の量、言うことが矛盾しているが我慢するしかない時代。列車から降りてフーフー言いながらやっとの思いでタクシー乗り場に到着すると、手の平は真っ赤っ赤。痛いわ、しびれるわ大変。おまけに車のトランクに荷物を積んでいると、外食の約束がある先輩から「オイ。これ、頼むわ」とボストンバッグを旅館へ運ぶことを頼まれる。中には「これ、タクシー代や」いくらか手渡してくれる良き先輩もいたが、すべてではない。宿舎に着いてからも荷物を運ぶのは大変だったが、現代は最寄りの駅には迎えのバスが待っている。そのバスに乗ればホテルの玄関まで直行してくれる。前の球場でトラックに積み込んだ荷物は、自分の手をわずらわせることなく部屋まで運んでくれている。まさに至れり尽くせり。今と昔の違いです。

 いまさら比較しても仕方のないこととはいえ、当時の若手は大変だった。野手も自分のバットケースとは別にノックバット、マスコットバットを運んでいたし、捕手はプロテクター、レガース、マスクの何人か分を1つにまとめて持ち歩いていた。時代を逆流してみたが、確かあの頃国鉄の大阪-東京間の所要時間は当初8時間だったのが、数年後には6時間に短縮されたと思う。特急は“つばめ”と“はと”。広島へは“かもめ”だったかな。名古屋へは近鉄特急で移動していた。車両は2年目までは三等車(現普通車)、3年目からは二等車(現グリーン車)。ただ、入団当初は月曜日と金曜日は移動日となっていて、日曜日はダブルヘッダーが行われていた。新幹線が開通して当日移動が可能になった区間は金曜日、当日に移動してゲームが開催されるようになった。国鉄かあ……。活字にしてみると、やけに懐かしく思えた。

 阪神タイガースへ復帰(フロント)したお陰で今と昔の両方を体験した。変われば変わるものでこの世界、本当、いい意味で進化している。荷物車の導入は高速道路の事故でトラックが現地に届かないというアクシデントはあったが、そう頻繁に起きるわけではない。時代は流れている。荷物車での運搬を取り入れただけで選手の移動がこれだけスムーズになるとは-。

 阪神で同期入団、20年間も現役選手として活躍した故遠井吾郎氏。私が新聞記者になってからも球場で顔を合わせればよく話をしたものだが「あの頃は本当シンドかったよなあ。移動日なんか荷物が多くてたまらんかったもんなあ。今の若いヤツは楽しとる。重たい荷物を持たんでもいいんやから。でも、荷物車はホンマに助かるよ」は、同級生で両システムの体験者。厳しさと進化を味わった人の話には実感がこもっていた。【本間勝】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「鳴尾浜通信」)