長男、三男は甲子園へ、次男は国技館へ。岩手・二戸市「欠端3兄弟」の長男欠端光則(52=DeNAスカウト)は80年夏、福岡のエースとして19年ぶりに同校を甲子園に導いた。初戦で大分商に敗れたが、同年秋にドラフト3位でロッテ入り。プロで通算57勝を挙げた。野球と相撲の聖地に立った3兄弟の秘密を語ってもらった。

 1年生から背番号は6。遊撃のレギュラーだったが、夏の前になるといつもエースが倒れ、2、3年の夏は欠端がマウンドを守った。80年夏の岩手県大会決勝で水沢に勝った時のことを「何とも言えないうれしさ」と振り返る。前年夏には決勝で久慈に敗れており、喜びはひとしおだった。

 欠端 優勝して、二戸は大騒ぎだし、自分の気持ちも大騒ぎ(笑い)。試合終わってそのままバスで二戸に帰って。メーン通りとされている国道4号線をパレードしました。二戸市全市民が来てる、そんな感じでした。

80年8月 大分商戦で投球する福岡・欠端
80年8月 大分商戦で投球する福岡・欠端

 背番号1を背負って行った初めての甲子園。大分商戦で先発したが、7回1/3、10安打4失点で降板。初戦で散った。

 欠端 甲子園で投球練習したらすごく調子良くて。ああいう時はだめなんですね。少し不安があるほうが、コントロール気をつけようとか、低めに投げようとか思うからいい。こんなところで負けるはずない、と。甘かったです。

 剛腕を認められ、80年ドラフトでロッテ入り。84年からは横浜に移籍し、先発ローテを守り活躍した。その頃、弟2人も兄を追うように力を見せる。84年には伊勢ノ海部屋に入門した次男信行(46)が「欠端」としてデビュー。86、87年には三男広樹(45)が一関商工(現一関学院)の内野手として甲子園に出場した。180センチ台の恵まれた体を持つ3兄弟は、どのように生まれ、育ったのか。

 欠端 父(吉孝)は陸上をやっていた。身のこなしというか、運動神経は良かったね。母(貴三子)は身長164センチで、体が大きかった。遺伝ですかね。それから、昔は、地元に神社の相撲大会があって、俺も小さい頃ずっと出てた。中3の時には、その相撲大会で団体と個人で優勝した。みんな俺より弱かったよ、でも自分は野球やっているから。2番目の弟は野球やってなかったので、地元の方の推薦があって相撲界に入ったんです。

 家は兼業農家。米、野菜の食材に困らなかったのも大きかった。

 欠端 みんな自然と食べましたね。足りなかったぐらい。食べ物に関しては食べたいだけ食べさせてもらいました。

 欠端の娘瑛子(22)はロンドンパラリンピックのゴールボール金メダリスト。欠端家のDNAは確実に受け継がれている。

 欠端は94年に引退後、打撃投手、球団広報を経て、09年からはスカウトを務め、中国・四国を中心に逸材発掘に飛びまわる。毎年秋には、野球教室のため地元二戸に帰り、「地味な反復練習が大事」と教え続ける。

 欠端 いつ行っても開会式で行進する選手を見て、新鮮に感じます。

 春夏と視察に訪れる甲子園球場は、35年たった今も輝いて見える。(敬称略)【高場泉穂】