この夏限りでユニホームを脱いだ浦和学院・森士監督(57)には、この夏、どうしても甲子園に戻らねばならない理由があった。就任30年の監督人生を、聖地で終えるためではない。初戦で敗れはしたが、心に秘めるある思いとともに走り抜けた夏だった。

今年4月。教え子が不慮の事故でこの世を去った。

浦和学院の捕手だった久保翔平さん。享年28歳。29歳の誕生日を迎える前日の4月11日、都内の病院で静かに息を引き取った。昨夏から野球部寮の食事や、体づくりのアドバイザーとして部をサポートしていた久保さん。愛嬌(あいきょう)ある笑顔が印象的で、選手たちにとって冗談も言い合える「アニキ的」な存在だった。

「第一報が入った時は、みんな泣いていた。とにかく一生懸命な男でした。いつも選手の近くにいて『クリスマスにはローストチキンを食べさせたいなぁ』なんて張り切ってくれてね。厳しい練習の後に、楽しい食事を提供しようと頑張ってくれていた」(森監督)。親元を離れて生活する選手たちに家庭の温かさを伝えたい思いから、自ら「母ちゃん食堂」と命名。「母親思いの子だったのに、親より早くこの世を去るなんて…」と、言葉を詰まらせた。無言の対面となった4月の葬儀では、冷たくなった久保さんのほおをなでながら「バカヤロウ!」と何度もつぶやいた。久保さんの作った料理で強い体を手に入れた選手たちと「今年の夏は、絶対に(甲子園に)行くからな」と棺(ひつぎ)の前で誓った。1回戦の聖望学園戦を筆頭に、決して楽ではなかった埼玉大会を勝ち上がった原動力には、胸に秘めた久保さんの存在があった。そしてみごと、有言実行した。


■「浦和学院を終わらせないために」2年前決意した退任


就任30年での監督退任は2年前の10月に決めていた。当時まだ55歳。「自分だけで浦和学院を終わらせないために、いま辞める」と、節目へ決意を向けた。5年前にコーチに就任した息子の大(だい)部長にバトンをつなぎ、これからは副校長として学校を支える。

2020年5月の甲子園中止発表から今大会に至る1年は、久保さんの死を含め、想像もしていなかった事に直面した。甲子園中止は多くの高校野球指導者がそうだったように、希望が見いだせない絶望感に襲われた。「甲子園という、大いなる象徴を失った。目標の置き換えが難しかった。俺だったらグレる」と周囲に吐露。3年生31人中、27人が野球を続けると言ってくれたことだけが、大きな救いとなった。

年明けの1月下旬は寮でコロナのクラスターが発生。1カ月半の活動休止中、感染対策と治療対応に追われた。去年の3年生の思い、コロナ感染、久保さんの死。一心不乱で進むことで自分を奮い立たせてきた。

今大会の日大山形戦で最後のバッターとなり泣き崩れた吉田瑞樹主将(3年)に森監督は「負けても堂々と前を向け」と声をかけた。久保さんが遺した野球ノートの裏表紙にも「ボロボロになっても昨日の自分には負けられない。何度泣いても諦めない!」。森監督と遠征バスの中で歌ってきた「傷だらけのhero」(TUBE)の一節が書かれていた。予期せぬ事態に見舞われた最後の1年。選手に言い続けてきた「ネバーギブアップ」の言葉を反すうしながらすべてを出し切った。


■ちょうど1000人になった教え子 初めて送った感謝の文


甲子園の敗戦から一夜明け。森監督は帰りの新幹線の中で無数に届いたメールを読み返し、ちょうど1000人となった教え子たちの顔を思い浮かべていた。

「男として…ライバルで有り…同志であった。君たちがいたから…ここまで特攻隊長のように走り続けることができました!こんな私についてきてくれて…本当にありがとう」。

口にできなかった感謝の気持ちを、一文一文に込めて返信した。

甲子園出場、春10回、夏12回。通算28勝。夢見ていた2013年センバツ優勝に続く夏制覇は果たせなかった。そして最後も負けてしまった。うまくいかないことの方が多い監督人生だったかもしれない。時代が変わっても選手から「大将」と呼ばれ慕われた森監督は、教え子を心から愛し、ともに戦い、そして最後まで教え子との約束を守り抜いた監督だった。【樫本ゆき】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「いま、会いにゆきます」)

オフになると大勢のOBがグラウンドに集まりノックを打つのが恒例だ。「迷ったら、いつでも遊びに来い」と言って卒業生を送り出してきた(撮影・吉永真)
オフになると大勢のOBがグラウンドに集まりノックを打つのが恒例だ。「迷ったら、いつでも遊びに来い」と言って卒業生を送り出してきた(撮影・吉永真)