とにかく前に進むしかなかったのだと思う。

 4年前のセンバツで東北(宮城)の副主将を務めた小川裕人は「切り替えて、という言葉は使いたくないんです。あの時は東北地方のために、元気な姿を見せようという気持ちだけでした」と振り返った。気持ちに整理がつきはじめたのは、甲子園が終わった後だったという。

 3月19日に仙台を離れ、大阪に入ってからの複雑な心境を話してくれた。宿舎で食べて、飲み、電気を使い、風呂に入る度に避難生活を続ける人々の顔が頭に浮かんだこと。普段通りの生活を送っていることが申し訳なくて、自由時間にコンビニへ行くことさえためらわれたこと。「メディアを通じて、被災した人たちが見てくれている」と意識する度に笑顔が消え、練習後も緊張がほどけなかったこと。ミーティングを重ね、「今やれることをやろう」と集中を取り戻すまでには、紆余(うよ)曲折があったと明かす。

 当時は弱音を吐くわけにいかなかったのだろう。なぜなら「東北のために」と心に決めていたから。3月11日からずっと歯を食いしばったような状態で、最後まで戦った彼らには頭の下がる思いがする。

 記者は11年センバツを取材していない。現地で観戦することもできなかった。しかし彼らのプレーや応援が人々の心を動かした理由は、今ならはっきりと理解できる。【松本岳志】

※「野球の国から 2015」<シリーズ9>「3・11が教えてくれた野球の力」取材メモ