第100回全国高校野球選手権大会の各地方大会が今日7日、本格開幕する。100回目の夏に向けて、歴史ある各校も奮闘する。山梨では1935年(昭10)に甲府中(現甲府一)が初めて夏の甲子園に立った。61年(昭36)、68年(昭43)と3度出場を果たした甲府一の礎を築いたのが米国球史に「ジャップ・ミカド」の異名を残した、とされる三神吾朗氏だ。甲府中から早大野球部で活躍し、米国留学時に独立プロリーグに在籍した先人の魂は今も脈々と息づいている。

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 甲府一のバックネット裏にある部室の壁には、1894年(明27)創立以来の部員の名札が掲げられている。その黎明(れいめい)期に三神吾朗の名がある。三神こそが伝統を紡ぐ、太い縦糸の1本であり、日本野球界のパイオニア「ジャップ・ミカド」の正体とされる人物だ。

 1908年に甲府中から早大野球部入り。先輩には「学生野球の父」飛田穂洲がいた。1911年の早大の米国遠征メンバーで、米国留学中の1914年(大3)に独立プロチーム「オール・ネーションズ」に入団した。

 当時の大リーグは白人以外の入団は認められなかった。黒人や有色人種を含めたプロチームに「ジャップ・ミカド」の異名を持つ俊足巧者がいた。日本人を蔑視するスラング「JAP」と日本を象徴する「ミカド(帝)」に三神の名を重ねた、ものと推察される。

 近年の研究で三神が「ジャップ・ミカド」であった可能性は高い。だが三神は経歴を終生語ることなく、野球界との接点を持たぬまま1958年(昭33)に逝去した。謎とロマンあふれるフィールド・オブ・ドリームス。俊足巧守で差別と奇異の目を畏怖と称賛に変えた日本人がいた。大谷、イチローらの活躍をさかのぼること100年以上も昔に-。

 母校に三神の足跡をたどるものは残されていない。けれども飛田穂洲から「一球入魂」の精神を直伝された三神の不屈の魂は何らかの形で母校に継承されたと考えるのが自然だ。「足が速かった方だと、伝え聞いています。足を使った野球が伝統」と母校を指揮する窪田新監督(43)。61年は松山商に5-6、68年も浜田に1-2と競り合った末に散った。「走って走って競り勝つ野球をする」と金山英誉主将は伝統を受け継ぐ。グラウンドで目を閉じれば、陽炎(かげろう)の中を駆け抜ける三神のシューズの音が聞こえ、夏の砂煙が香る。三神の走魂は今も、そこにある。初戦は12日、シード帝京三。伝統の夏が始まる。(敬称略)【大上悟】