49の全代表がすべて甲子園のグラウンドに立ち、大会は閉幕した。“完走”の夏になった。大会審判委員長の日本高野連・宝会長は「49代表校すべてこの甲子園球場で試合ができましたことはみなさまのご理解のたまもので、深く御礼申し上げます」と、大会講評に感謝を込めた。

大会を前に、主催の日本高野連と朝日新聞社は出場選手や日程変更に関するルール改定を取り決めた。昨夏の宮崎商、東北学院(宮城)、今春の京都国際、広島商がコロナ感染拡大で出場を辞退したことを踏まえ「ノーモア辞退校」の思いを込め、大胆にルールを変えた。

「ノーモア辞退校」イコール「ノーモア代替校」。7月の臨時運営委員会で「代表校の差し替えなどはしない」と発表。大会本部は夏の大会を前に、各都道府県の高野連に代替校に関する意見を求めた。認める声と反対の声は、半分に分かれたという。

まだ春ならば、1月の選考で漏れてもチームは夏を目指して活動している。今春、京都国際に代わって出場した近江(滋賀)が高いモチベーションで準優勝したような結果も生まれる。だが夏の場合、敗れた時点でチームは世代交代。個人の次のステージに向けて気持ちをリセットした3年生に同じパフォーマンスを求めるのは難しく、実戦でケガをする可能性もある。

コロナ禍とは事情は違うが、05年夏の開幕直前に明徳義塾が出場を辞退。高知大会準優勝の高知が急きょ、出場することになった。だがチームはすでに解散。大学で野球を続けるエースは練習を継続していたが、野球に区切りをつけたメンバーは夏休みの真っ最中。まさかの出場に胸を躍らせる一方で、態勢を整える学校、チームはてんやわんやだった。

やはり本来の代表校で大会は開催されるべきという考えのもと、大会本部はルール改正に踏み切った。球児の言葉もヒントになった。「応援のメンバー含め、全員の勝利」という言葉を、球児はよく使う。大阪桐蔭主将だった星子天真内野手(3年)も「全部員64人が束になって」の言葉に、全員で戦う思いを込めていた。ならば、どんどん選手を替えていいのではという発想につながった。

主力の感染で、地方大会とは全く違う戦いを余儀なくされた県岐阜商のようなチームもあった、社(兵庫)に完敗し、こんなはずではなかったという思いはあったかもしれない。だがあのグラウンドに1度も立つことなく、参加を辞退した宮崎商、京都国際の無念を思えば、柔軟なルール変更は報われたと思う。【堀まどか】