神宮で一旗揚げる。仙台育英(宮城)の最速145キロ左腕、古川翼(3年)が、東京6大学野球の法大に進学する。

系列の秀光中教校軟式野球部(現硬式野球部)時代から速球派サウスポーとして名をはせ、同校では1年秋からベンチ入り。そのままエリート街道を突き進むかに見えたが、2年春に本来の投球を見失い、野球人生初の挫折を経験。最後の夏は背番号「1」を勝ち取ったが、3年間で思い描いていたような成長はできなかった。大学で心機一転。4年後の「プロ入り」を目標に掲げ、さらなる飛躍を期す。   ◇   ◇   ◇

東京6大学野球の名門、法大への進学を決めた古川は自らの可能性を信じて、最高峰のリーグに飛び込む。「(大学野球で)自分がどこまでやれるのかなと。最終的に(4年後)どんな投手に成長しているのか。自分への期待が一番ある。まずは神宮優勝を目標に、その先にプロへの道が続くのであれば、プロに行って活躍したい」。

苦悩を乗り越え、確かな足跡を残した。中学時代は速球派左腕として名をはせ、鳴り物入りで仙台育英に入学。当時の心境をこう振り返る。「変な自信しかなかった。高校でもっと成長して、150キロを投げて、プロも視野に入って、世代トップの投手になれるだろうな」。1年秋にベンチ入り。順調そのものだった。だが、理想と現実はかけ離れていた。2年春のセンバツ。明徳義塾(高知)との初戦。先発した古川は3回2/3を1安打無失点で甲子園デビュー。だが、結果以上に全国レベルを身に染みて感じたという。「中学からセンバツまで何も苦労しなかったけど、高校の全国レベルになって通用しない感覚を味わった。センバツで何か、ズレが生じた」。

その“ズレ”が悪循環を招く。「何かを変えようと思って、またズレが生じた。何もかもうまくいかなくなった」。中学3年で最速144キロをマークし、全国でもほぼ“無敵”状態だったと明かす。打たれた記憶すらない。「走者を出さないのが普通だった。極端に何失点もすることもなかった」。野球人生で初めて大きな壁に直面。2年夏、秋とベンチ入りこそしたが公式戦登板はほとんどなく、本来の姿を取り戻したのは2年の冬だった。「自分がどういう投球していくのか…。見失ってから、ずっと苦悩しました」。

最後の夏はエースの座を勝ち取り、東北勢悲願の初優勝に大きく貢献。自身2度目となった聖地で歓喜の瞬間を味わった。「高校3年間、思うようにいかないことが多かったが、須江先生(監督)であったり、いろいろな方々に支えてもらいながら、甲子園で優勝できた。これまでやってきたことが、最後、良い結果につながったと思います」と感謝の言葉を口にした。

苦悩し、もがき、頂点の景色を知る左腕が、新たな舞台でさらなる飛躍を期す。4年後の「プロ入り」を目指して。【佐藤究】

◆古川翼(ふるかわ・つばさ)2004年(平16)4月14日生まれ、仙台市出身。小2から泉中山ドリームズで野球を始め、中学は秀光中教校軟式野球部に所属。中2時に全国中学総体で準優勝を経験。仙台育英では1年秋からベンチ入り。173センチ、76キロ。左投げ左打ち。