夏の甲子園大会で2度の優勝と高校野球を代表する指導者として、多くの監督に影響を与えてきた日大三の小倉全由監督(65)が9日、定年に伴い3月末での監督退任を選手に伝えた。選手、マネジャー70人の前で「3月で監督をあがる」と、単刀直入に結論を言った。

全国制覇2度の名門は、三木有造部長(48)へバトンを託す。

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1981年(昭56)12月、関東第一で高校野球の監督生活をスタートした。24歳の若さだった。

83年夏決勝、関東第一は帝京に2-3で敗れた。試合後、しばらくしてコーチから自宅に電話が入る。「あの~、監督さんはいませんよね」。敏子夫人(当時27歳)は察した。「ああ、うちの人いなくなったんだ」。26歳の小倉監督は敗戦のショックを引きずり、絶望感にのみ込まれていた。

この後、荒川の土手で1人座っているところを見つかったが記憶はない。「そうだったかなあ」。いまも思い出せない。敗戦で頭がいっぱいだった青年監督の心境がうかがえる。

ひとつだけ、夫婦の記憶が一致した。帰宅して泣いた。「俺はもう、帝京に勝てないんじゃないか」。言いながら涙をこぼす夫を、敏子さんは布団たたきを出して、こう言いながら、たたいた。

敏子さん 何言ってんの!まだ3年でしょ。2年や3年で勝てるわけないじゃない。

そう言って、姉さん女房は、布団たたきを握り締めた。「どこをたたいたか、忘れちゃいました。アハハハ!」。敏子さんは笑う。小倉監督は「ああ、布団たたきかあ。俺、たたかれたっけ?」と言って、うれしそうな敏子さんを見た。

「縦じまは見るのもイヤだった」。敏子さんにそう言わせるほど、帝京前田監督の壁は巨大だった。しかし、白旗は上げない。敏子さんの夫を励ます思いと、一本気な小倉監督の情熱は合わさり、打倒帝京へまっすぐに伸びていく。夫婦の悲願は85年夏、結実する。

7月28日、神宮球場。東東京大会・決勝。関東第一は燃える火の玉となって帝京にぶつかる。8回表を終わり4-3で関東第一がリード。8回裏、決着をつける瞬間が訪れる。

1死満塁。2番室井が走者一層の三塁打。続く3番田辺がタイムリーでこの回4点目。すぐに二盗。1死二塁、4番山本が左翼へ2ラン、6点目。2死を取られるが、二塁に走者を送り、今度は塩田が右翼へとどめの2ラン。この回だけで2本の2ラン。打者11人で7安打8点。

時代が違う。ベンチの中で関東第一の選手はじっとしていられない。飛び出して、帝京ベンチに向かってガッツポーズ(翌日、小倉監督は神宮球場で高野連理事長から注意を受ける)。今のマナー、常識では考えられない。ふりかえる小倉監督の言葉を聞くだけで、血が騒ぐ。

小倉監督 それまで、何度も帝京にたたきのめされてきました。負けただけじゃないんです。ホームランを打ったバッターが、うちのベンチの前でこれ見よがしにガッツポーズを繰り返す、そんな時代でした。自分にはまるで、帝京の選手が『お前らとは違うんだよ』と言っているようで、悔しかった。屈辱でした。その思いが、あいつらの胸にもあったんでしょう。いつかやり返してやるんだって。それが爆発したんだと思います。

言葉を選ばなければ、当時の関東第一と帝京の試合は、野球に名を借りたけんかだ。甲子園初出場へ肉薄する下町・関東第一と、無類の強さを誇る全国区・帝京の、やるかやられるか、決闘だった。

8回裏が終わり12-3。9回表の帝京の攻撃に入る時に、小倉監督はベンチ内の光景に息をのむ。

小倉監督 自分もその時気付いたんですが、もうあいつら、ベンチの中で泣いているんです。泣いて抱き合って、「甲子園、甲子園」って叫んでました。

泣きながら抱き合うナインに激しい怒声が飛ぶ。

小倉監督 お前らッ、まだ終わってないッ! 9回表が残ってるんだぞ。

そういう小倉監督も、高鳴る鼓動を抑えられない。

小倉監督 帝京相手に8点取った。帝京にも8点取られるかもしれない。心臓はドキドキでした。長かった。本当に長い9回表の攻撃でした。

エラーも出た、併殺が取れる打球を慎重に1アウトずつ。じりじりしながら、2点でしのぐ。最後、遊ゴロを田辺が捕って一塁へ。小倉監督は一塁手柴田が捕球する姿を再現するように左手を伸ばし、宙を見た。38年の時を超え、あの日の熱さに、心は届いているようだ。

小倉監督 何がもっとも心に残っているかと言えば、全国制覇以上にあの夏、帝京に勝ってつかんだ初優勝ですね。あの時の気持ちはいまだに忘れることはできません。帝京に勝ちたかった。東京を制して甲子園に行く、それが関東第一の目指す唯一の目標でした。あの帝京を倒しててっぺんを取る。そうでなければならなかった。前田さんの帝京を倒す。何度もはね返された前田さんに勝つ、それしかなかったんです。

勝った時の思いを聞く。正直な思いは、そのまま言葉になった。

小倉監督 ざまあみやがれ、です。

心からそう思ってきたのだろう。何十年もそう思い続け、それを何よりも誇りにしてきたむき出しの言葉は熱く、尊い。

小倉監督 言葉は悪いんです。それは分かってます。でも、そのときの気持ちは、それなんです。それまで、ため込んだ悔しさを、あの時、あの試合で帝京に晴らすことができた。もう、帝京への敬意とか、前田さんへの感謝とか、そんなきれいごとは何もなかったんです。見たか、ざまあみろって。勝ったぞ、俺たちが勝ったんだって。行儀は悪いかもしれません。でも、今もはっきりあの時の興奮はよみがえります。あの一瞬によぎった感情は今も決して色あせません。

言葉は踊る。65歳小倉監督の感情、いや激情が、その日の関東第一の球児、青年監督の思いと重なる。試合後の様子を、気持ちいいほど正直に話してくれた。

小倉監督 整列して前田さんにあいさつしたんでしょう。その時の前田さんがどんな表情をしていたのかなんて、見てません。あの時の前田さんは、どうしていたんだろう? 多分すぐにベンチ裏に消えたと思います。自分にはもう、勝ったこと、それしかなかったですよね。

一生のうちに、こんな瞬間を1度でも味わうことがあるだろうか。たたきのめされてきた敵に勝ち、腹の底からの「ざまあみやがれ」。そこには血潮がある、夢中で挑んだ若く熱く、まざりけのない思いがある。偉大な先輩への燃えるライバル心、そしてあこがれが、こめられていた。

走り続けてきた小倉監督は23年春、監督生活の終わりを視界にとらえた。両膝は少し痛い。でも、もう大丈夫。ここまでの道のりは、後進への道しるべになる。あとは任せるだけだ。もう振り向かない。ゴールへ加速するその背中は若々しく、迷いはない。

教え子の拍手が聞こえる。目の前は開けた。敏子さんが待っている。ニコッと笑う監督さんは今、ゴールに飛び込む。【井上真】

◆小倉全由(おぐら・まさよし) 1957年(昭32)4月10日、千葉県生まれ。日大三野球部では3年夏は背番号「13」の控え選手。5回戦で敗れ甲子園とは無縁だった。81年12月に関東第一の監督に就任。85年夏に帝京を破り同校初の甲子園出場。87年センバツでは立浪擁するPL学園に決勝で敗れ準優勝。97年母校の監督に就任。99年センバツで日大三の監督としては初の甲子園出場。01年夏は甲子園歴代最高記録(当時)となるチーム打率4割2分7厘で初優勝。11年夏も2度目の全国制覇を遂げた。主な教え子は坂倉将吾(広島)、山崎福也(オリックス)、近藤一樹(元ヤクルト)ら。社会科(倫理)教員。家族は妻と2女、孫が1人。