麟太郎が勝海舟のように海を越える-。米スタンフォード大に進学が決まった高校歴代最多の通算140本塁打を誇る花巻東(岩手)の佐々木麟太郎内野手(3年)が20日、花巻市内の同校で取材に応じた。超名門の同大に決めた理由、今後の野球人生の展望について語った。1月の渡米直前には幕末に活躍し、名前の由来にもなった勝海舟のお墓参りに足を運び、勇気をもらった。最高最強の文武両道を異国で極めるために。新たな人生を、力強く切り開く。

   ◇   ◇   ◇

その表情は、すがすがしかった。約50人の報道陣の前に立った佐々木麟は凜(りん)とした表情で「最後に1つの大学を決めさせていただいて安堵(あんど)と喜びの気持ちです」と、第一声に思いを込めた。進むべき道を決め、言葉には希望があふれた。超名門校のスタンフォード大学を選んだ理由について「最後は素晴らしいコンディショニングとサポートが決め手になった」と胸を張った。

自分の人生観「一瞬の喜びではなく、一生の喜びで」を貫いた。「いろいろな文化、言語、思考を持つ方々との交流で、高い知識、知恵、思考を構築したい。野球も勉強もできる人間になることは佐々木麟太郎の人生で大きなテーマです」。選んだ道は険しくとも、努力する覚悟はできている。

崇拝する勝海舟から勇気をもらった。「麟太郎」は父佐々木洋監督(48)が尊敬する、幕末に幕臣として活躍した勝海舟の幼名。咸臨丸で太平洋を横断し渡米。近代日本への道を切り開いた。佐々木麟は、1月10日、渡米直前に東京・大田区にある「勝海舟記念館」とお墓を訪れ、手を合わせた。「考え方、思考がその時代の人たちの先を行っていた。あらためてすごいなぁと思いました」。翌日からの渡米は、大学を決める旅。「人生を決断するモチベーションになりました」。偉人に自身の人生を重ね合わせ、前例のないことに挑戦する勇気に変えた。

勝海舟は18歳の時に見た世界地図が、世界を見に行くきっかけになったといわれる。くしくも、麟太郎も同じ18歳で海を渡り、世界に踏み出す。佐々木監督は「まさか、息子が同じように海を渡るとは。野球だけでなく、日本に貢献できるような人間になって欲しい」と大きな期待を寄せた。

現在は言語の習得が最優先と勉強中。ビザの関係もあるが4月から渡米し単位を取得できるシステムを利用し、9月の入学に備える。「2年後以降、MLBまたはNPBの指名をいただければうれしいと思っています」。米国では最短で21歳となる26年夏にドラフト対象となる中で、プロ志望も明言。大海原を越え、麟太郎の旅が今、始まる。【保坂淑子】

○…佐々木麟が巨人軍終身名誉監督を務める長嶋茂雄氏の栄光の背番号3を選択した。大学側からは3番に加え、大谷も背負う17番、長距離砲の代名詞となる25番が提示されたという。「17番は投手コーチがすでにつけていた。25番は小さいころから目標に掲げたバリー・ボンズがつけていた番号。思い入れがあったが『3』にこだわって決めた。理由は長嶋茂雄さんが頭の中で浮かんだから」。20日に88歳の米寿を迎えたミスターのように、記憶に残る選手を目指す。

◆勝海舟 1823年(文政6)、江戸に生まれる。幕末から明治初期の激動の時代を生きた幕臣、政治家で、幼名・通称は麟太郎。1860年(万延元)に咸臨丸の艦長として米国に渡る。帰国後は神戸に海軍操練所を開き、坂本龍馬らを育成。戊辰戦争では西郷隆盛と会談し、江戸城無血開城を実現した。明治維新後も新政府の要職を歴任。1899年(明32)に死去。

◆スタンフォード大 米カリフォルニア州にある世界屈指の名門大学。米国では「東のハーバード、西のスタンフォード」と称され、タイガー・ウッズ、鳩山由紀夫氏、アグネス・チャンらを輩出。野球部は1892年にリーグ戦初参加。愛称はカージナル。全米体育協会(NCAA)1部、PAC12(太平洋岸)所属。大学ワールドシリーズ2度(87、88年)優勝。主なOBに通算270勝で殿堂入りのマイク・ムシーナ、93年サイ・ヤング賞のジャック・マクダウェルら。

佐々木麟の一問一答

--入学に際して大変だったことは

「時間をかけて英文でエッセーを書いたり、たくさんの資料も提出。最終的に判断をもらったので大変だった。率直に今、喜びはあります」

--卒業が大変と言われている

「勉強も含め、本当にレベルの高い大学。覚悟の上で入った。4年間にこだわりはない。最終的には卒業ができればと思っている。もしドラフトに指名されても、オフシーズンに単位を取れると聞いている。努力して、卒業したいという思いです」

--どんなことを学びたい 「野球人生が終わった後、スポーツを抜きにしてもビジネスにも興味がある。まだ何がやりたいという明確なものはないけど、これから学んで何をしたいかを探していきたい」