私は「星野」と言ったし、彼は「修平さん」と言った。あえて星野と呼ばせてもらうのは、明大の後輩で、中日時代の遠征先でも同部屋の間柄だったから。私たちがそう呼び合うのは自然だった。

 東京6大学のスターだった星野のプロ入りで、東京、広島の宿舎の部屋には、とにかく知人からの電話が多数かかった。私にはほとんどないから、彼が不在のときは、いつも私が星野の“電話番”だった。

 今だから打ち明けるが、星野が投げるゲームは非常に守りづらい。だってエラーすると、年上でも、何でも怒りまくるんだ(笑い)。当時ショートだった私も大事な場面では硬くなった覚えがある。

 私が阪神監督の要請を受けたときのことだ。1989年、監督だったムラさん(村山実氏)が退任するという。シーズン終盤、大阪市北区の東洋ホテルで、阪神球団からのアプローチに受諾の意思を伝えた。

 しかし、その後、もろもろの事情があって、グチャグチャになって、阪神監督就任は破談になった。眠れない日が続いた。もはや大阪では仕事がないかも…。そんなプレッシャーで押しつぶされかけていたとき、1本の電話が鳴った。

 「修平さん、僕です。星野です」

 それはまったく予期せぬ電話だった。星野は「今の状況では関西に居づらいでしょ。うち(中日)にきてくれませんか?」。その一言で中日ヘッドコーチに就いた。本当に精神的にしんどかったから、後輩の気遣いがありがたかった。

 ただ、グラウンドでは「闘将」と称されたように激しい。最も嫌ったのは、相手打者に踏み込まれて右前にヒットを打たれること。つまり投手が内角を厳しく突いていないというわけだ。それと先頭打者に四球を与えると血が上った。

 私はベンチ前列に座って、星野が後方に立った。とにかくよく後ろからベンチを蹴る。何度も何度も。ドカンっ! ボコっ! そのままだと、首がむち打ちになるのは明らかで、席を移動した。その強烈な音はベンチ裏にも響いた(笑い)。

 星野野球は正攻法で、中日、阪神、楽天の3球団で優勝した。しかも指揮をとりながら、補強でも手腕を発揮した。落合博満氏、金本知憲氏らを獲得したように、監督でありながら、巧みな「人集め」で異彩を放った希少な存在だった。

 甲子園には3万超のファンが詰めかけた。彼が亡くなった後の反響を見ると、どれだけ功績を残したかを感じずにはいられない。思い出は尽きない。星野よ…。今でも私が声を掛けると、ふっと振り返ってくれるみたいで…。(日刊スポーツ評論家)