現役時代は「いぶし銀」が代名詞だった。バットを短く持って、ファウルで粘り、しぶとく右打ちで出塁する。二塁手として8度のゴールデングラブに輝いた名手。攻守に、リードオフマンとして森監督時代の常勝西武を引っ張った。

辻発彦とは-。現役時代を覚えている野球ファンは前記のようなイメージが残っていると思う。私も、担当記者になる前は、そのひとりだった。だが、実像は少し違っていた。当時の話を思い出してみた。

「このチームに入って、しばらくして、俺が生き残る道はこれしかないな、と思ったんだよ。だって、周りにいるのが、アキ(秋山)にキヨ(清原)だよ。打球が違うんだよ。俺がホームラン狙ったって、しょうがないだろ」。

1980年代の西武は大リーグを意識したようなスケールの大きいチーム作りを進め、大型選手を優先して獲得していた。遊撃手・石毛宏典が180センチ、三塁手から中堅にコンバートした秋山幸二が186センチ、一塁手・清原和博は188センチ…。

「俺も社会人時代は3番とか4番を打ってたんだよ。バット振り回してたんだよ。みんな知らないと思うけどね(笑)」。

佐賀東から日本通運に進み、長打力のある大型内野手としてドラフト2位で入団。84年にデビューした。

当時の西武のサードは秋山。ほどなく辻はセカンドへコンバートされる。実は、辻も182センチあるのだが、二塁手=小柄のイメージに加え、大型選手がそろう西武では目立たない存在だった。

西武に辻発彦あり。球史に残るプレーを演じて、その名を知らしめたのが、1987年の巨人との日本シリーズ第6戦だった。

一塁走者だった辻は、巨人中堅手クロマティの緩慢な守備のスキをついて、2死一塁からシングル安打で一気に本塁へ生還した。現役通算242盗塁を記録したように、生き残るために磨いたものには、巧打や守備に加え、走塁技術もあった。

西武在籍時、84年から12シーズンで9度のリーグ制覇。常勝チームに飛び込んでしまった辻がレギュラーの座を明け渡さなかったのは、グラウンドで磨いた走攻守の技術だけではない。勝負への強い執念も持ち備えていた。

象徴的なシーンが、昨日の出来事にようによみがえってくる。

1989年10月12日。西武は近鉄とのダブルヘッダーで1つ勝てば優勝の大1番を迎えた。第1試合、中盤までリードしながら、ブライアントに3連発を浴び逆転負け。紙テープを持って歓喜の瞬間を待っていた西武ファンは肩を落とし、ロッカー室の西武ナインも沈黙していた。第2試合までのわずかな時間、球団広報は取材タイムを設定したのだが、辻は怒声を発した。

「まだ終わってないんだ! 何で(報道陣がロッカー室に)入ってくるんだ! 出ていってくれ!」。

5連覇目前から、まさかの逆転負け。一転して崖っぷちに追い込まれた西武ナインは、V逸したかのような悲壮感を漂わせていた。そんな中で、辻は闘争心をむき出しにしたのだ。ナインを鼓舞しようという気持ちもあったのだろう。珍しい光景だった。

第2試合も再びブライアントに4打数連続本塁打となる1発を浴び、西武は優勝を逃した。

後日、辻はロッカー室で大声を張り上げたことをわびにきた。

「申し訳なかった。でも俺らも必死だったんだよ。優勝ムードから引っ繰り返されたんだよ。そしたら(第1試合が終わって)記者がロッカー室に入ってきて、思わずカーッとなったんだよな」。

先日、球場で辻監督と話す機会があった。10月24日に還暦を迎えるのだが、生気に満ちあふれ冗談交じりに話す表情は、最強軍団の一員だった当時と変わっていなかった。球史に残る名バイプレーヤーから優勝監督へ。常勝西武の「DNA」は脈々と受け継がれている。(敬称略)

【元西武担当=田 誠】