1988年(昭63)10月19日。川崎球場で行われたロッテとのダブルヘッダーで奇跡の大逆転優勝を目指して戦った近鉄の夢は最後の最後で阻まれた。あれから30年。選手、コーチ、関係者ら15人にあの壮絶な試合とはいったい何だったのかを聞いた。

  ◇   ◇   ◇  

日本新薬監督の吹石徳一(65)にとって「10・19」は現役最後の試合となった。

◆第2試合 1-1の7回表、ロッテ先発園川から勝ち越し本塁打を左翼席へ。前日の1号に続くシーズン2本目のアーチにスタンドは熱狂の渦に包まれた。

吹石 自分ではストレートを打ったつもりでしたが、後で聞くとスライダーのようですね。たまたまホームランになったとは思うけど、ベンチに帰ってきたらドンチャン騒ぎ。泣いてる人もいた。ぼくが打って、真喜志もホームランを打って、これで勝てると思った。でもそこが落とし穴なのかな。野球の怖さでしょうね。

プロ14年目のシーズンは故障もあり、出場機会は激減していた。だが、終盤に三塁手の金村が左手首を骨折。大一番でベテランの底力を発揮した。優勝にはほんのわずか届かなかったが、現役を退くつもりはなかった。ところがこの試合の1週間後、コーチ就任要請がきた。

吹石 チームの事情もある。そういうタイミングなのかなと。西本さん(幸雄氏=元近鉄監督)に相談し、コーチの話を受けさせてもらいました。

常に感謝を忘れず、決して着実な歩みを崩そうとはしない。楽天でスカウト活動を終えると、13年から古巣・日本新薬に復帰。コーチを経て昨年から監督に就任した。今も奈良の自宅から電車で京都に通い、指導を続ける。野球に真摯(しんし)に取り組む姿は現役時代から変わらない。だからあの本塁打が出た瞬間、ベンチのだれもが心を震わせ、ファンは涙を流した。

吹石 日本新薬には高校を出てから3年間、お世話になったのですが、都市対抗に出場したときも補強選手が試合に出て、私は出られなかった。なぜ、近鉄は私をドラフトで指名してくれたんでしょうか(笑い)。

日々の努力で闘将・西本監督によるチーム強化に欠かせない内野手となった。79年広島との日本シリーズ第7戦では代走出場で逆転サヨナラの走者として二塁まで進んだが、「江夏の21球」に日本一を阻まれた。近鉄で選手、コーチ、スカウトとして4度、リーグ優勝にかかわったがいずれもシリーズで敗れた。楽天が日本一となったのも退団翌年の13年だった。

吹石 ほんとに縁がないんです。確かに日本一は目標ですが、まずはひとつ勝たないことには次はない。ひとつずつ、です。

日々の練習、1試合1試合を大切に。その姿勢は今も変わらない。11月の社会人野球日本選手権(京セラドーム大阪)では惜しくもベスト8で敗退、悲願の日本一には届かなかった。それでもまた、着実に歩みを進めるのだろう。最後に「10・19」でもっとも思い出に残るシーンを聞いてみた。

吹石 1試合目の9回に梨田が決勝打を打ったシーンかな。ホームベースのところで中西さんと鈴木が抱き合ってねえ…。

それは現役最後の自身の本塁打ではなかった。(敬称略)

◆吹石徳一(ふきいし・とくいち)1953年生まれ。和歌山県出身。南部高、日本新薬を経てドラフト4位で近鉄入団。通算1020試合出場。引退後は近鉄コーチ、スカウト。楽天スカウト。17年から日本新薬監督。